苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮村先生と武石村へ

マンジュウイシという珍しい石

 
沖縄の宮村武夫先生が、東京での白内障手術後のしばらくの治療過程の合間を縫って、信州を訪ねてくださった。昨日は上田郊外の武石にお住まいのA先生ご夫妻をお訪ねした。黄金の稲穂がたわわに実って、すでにはせ掛けをすませた田んぼも三割ほど見える、その向こうにはちらほらもみじの気配の山々、そして抜けるような青空。変わることのない宮村先生の聖書への情熱あふれるお話に、力をいただいた。
 一時間半ほどで、A先生ご夫妻のお宅に到着した。私は、A先生とは、これまで個人的な交流はまったくなかった。ただ、神学生時代にたった一度だけチャペルでうかがった創世記第四章後半の説教が深い印象となって、以来、筆者の中に二十数年間に生きてきた。神に背を向けたカインの子孫たちは快楽的で暴力的で帝国主義的な文明を築き上げたが、他方では、神を畏れるセツの一族は華々しさはないけれど、彼らは自らの弱さをわきまえて祈ることをその民の営みの中心とする歩みをしていった。神の民は、成果主義・マモニズム・暴力が支配するこの世とは異なる原理のもとに生きるのだということを教えていただいた。後にアウグスティヌスを読むようになり、神の国と地の国の闘争としての歴史について考えるようになって、いよいよあの日に聞いた説教が生きてきた。しかも、A先生は、この説教を観念のうちにことばにとどめるのではなく、実際に弱い立場にある人とともに祈りかつ生きて来られたお方なのだと宮村先生に教えていただいた。
 A先生は最近シンセサイザーで作曲を始められ、村の芸能会で発表なさったということで、ぜひとお願いして、生演奏していただいた。モダンジャズを若い日からずっと聞いていらした方なので、こんなことがお出来になるんだろう。また、シンセサイザーという不思議な楽器にもおどろいた。そして音楽のことを話されるときの先生の生き生きとしたお顔がうれしかった。
 一方、奥さんは大の岩石蒐集家いや愛石家でいらっしゃって、おびただしいさまざまな石を見せていただいた。ちょうど、武石への途上で、宮村先生に「たしかに人間だけが神の像として造られていると聖書がいうのですから、まったくその通りなのですが、それだからといって人間だけを霊的存在として、他の動物や植物はただの機械だと見てしまうとしたら、それは聖書的というより、デカルト心身二元論的というべきではないでしょうか。」と自分の飼っているミニダックスのロダのことを思いながら話したところだった。すると宮村先生が「そのとおり。いや石だって、人格的な神の作品なのですから、ただの無意味な存在ではないのだ」とおっしゃったことと附合したので、石を眺めたりさすったりしながらいろいろ思い巡らした。