苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

存在の喜び

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」ローマ8:14−17

1.最高の恵み

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)

 ローマ書において、記者のパウロは1章から5章で、人は律法の行いによって神様の前に義と認められるのではなく、恵みのゆえに信仰によって義と認められるのだということを力説してきました。そして、6章、7章において罪を赦された者、義と認められた者として義の奴隷として正しく生きる原理的なことについて語ってきました。その上で8章において、神の子としての恵みのうちに生きることを教えるのです。
 この順序はなにを意味しているのでしょうか?神の子どもとされたという恵みは、信仰によって罪赦されて義と認めていただいたという恵みを土台として与えられた最高の恵みであることを意味しているのです。信仰によって義とされたことは、実にすばらしいことで、私自身その恵みに感激して、20歳の2月に神様の前に自分のいのちをおささげしたのです。自分の罪を知らされたとき、そして、私の罪のためにイエス様が十字架にかかってまで私を救ってくださったとわかったとき、「もはや自分のために生きたのでは申し訳ありません。神様、私の人生をあなたにおささげします。」と祈らないではいられなかったのです。ですが、パウロによれば、神の子どもとされたという恵みは、義とされた恵みを土台として、クリスチャンに与えられる最高の恵みなのです。最高の恵みというのは、これ以上ない究極的な恵みであるということです。
 しかも、この最高の恵みは、クリスチャンであるならば、誰でも受けている恵みなのです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもである」とあります。神の御霊によって、「イエス様は主です。神の御子です」と信じる信仰を与えられている人がクリスチャンです。神の御霊に導かれているのがクリスチャンです。すべてのクリスチャンは、神様の子どもとしていただいているのです。

2.奴隷的クリスチャン

 しかし、私たちクリスチャンは神の御霊を受けているにもかかわらず、時々、神様からいただいた「神の子どもとされた恵み」の味わいを忘れてしまうことがあるというのです。そのときには、信仰生活を送りながら再び恐怖に陥って、また自分が神様の子どもとされているにもかかわらず、自分は奴隷にすぎないのだと思い込んでしまうのだというのです。だからこそ、パウロは次のように強調しなければなりませんでした。

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(8:15)

 クリスチャンが奴隷的な恐怖をいだいているとはどういうことでしょうか。ここに「再び恐怖に陥れる」ということばがあります。かつてイエス様を知らないときには奴隷的な恐怖に脅かされる生活をしていた。けれども、イエス様に出会っていったんは、そういう奴隷的恐怖から解放されたのに、いつの間にか「再び」そういう奴隷的恐怖をいだくようになってしまったというのです。いつのまにかまた昔のイエス様を信じる前の奴隷的な恐怖にしばられるような生き方をするようになっているのです。
 いったい奴隷としての恐怖とはなんのことでしょうか?これは律法の下にある状態と、福音の中にある状態の違いとしてパウロがガラテヤ書3章から5章で力説していることです。奴隷と子どもの決定的なちがいとはなんでしょうか。それは子どもは自由だけれど、奴隷は不自由であるという違いです。奴隷は、主人から何ができるか、何がどの程度できるかという、その働きの多寡によって評価されるという恐怖に縛られています。けれども、子どもの場合はなにができるかできないかという働き以前に、父親はその子どもの存在そのものを喜んでいるのです。子どもはそういう自由をもっています。
 私たちはキリストを知る以前、いつも何ができる何ができないということばかり気にして生きていたのではないでしょうか。ある神学者は、アダムが善悪の知識の木から実を取って食べて以来、すべての人は自力救済主義者となってしまったのだといいます。そうして、いつも何ができるできないで傲慢になったり卑屈になったりして生きているのです。イエス様を信じたとき、私たちは行いによらず恵みによって罪赦されたので、私たちはもはや奴隷ではなくなったはずです。ところが、またもこういう奴隷的恐怖にふたたび縛られるようになってしまった人々に対して、パウロは、いや確かにあなたがたはすでに神の子どもとされているのであって、奴隷ではありませんということをしきりに強調しています。
 神の子どもとされたという事実には、二つの側面があります。一つは、身分的・法的なことです。イエス様は神の実子ですが、イエス様を信じる私たちのことを、神様は私たちを養子として入籍してくださったのだということです。 ある死刑囚がいました。彼は王様の一人息子を殺したかどで死刑が確定していたのです。いつ刑が執行されるのかと毎日ビクビクしながら、その癖、表面的には「死ぬことなんて何にも怖くねえや」と虚勢を張って獄中生活をしています。ところが、ある日、王から赦免が発令されました。突然のことに驚きながら手続きをすませると、彼は刑務所の鉄扉の前に立ちます。「二度と戻ってくるなよ。」と看守が声をかけます。「へい。お世話になりやした。」・・・ここまでが義と宣告されることです。
 「しかし、すねに傷ある俺にはシャバの風は冷てえだろうし、また舞もどっちまうんじゃねえかな。」そんな不安が心をよぎります。ギーッ。扉が開きました。「アッ」そこには彼がその息子を殺した王様とその家族が立っています。「すみませんで済むとは思いませんが、俺はこのとおり赦しをいただきました。この上は、王様の奴隷としてなんでもさせていただきやす。」ところが、王は最後まで言わせず彼の肩をガバと抱き寄せて答えます、「いや、君は奴隷ではない。君は、これからわたしの家族だ。この子たちも君と同じ境遇だったんだが、今は私の子たちだ。」そう言って、あろうことか王は彼の指に相続人の指輪をはめてくれました。・・・・これが子とされたということです。
 私たちの救いにあてはめれば、このときに指にはめられた王の子どもとしての保証の指輪こそ、御子の御霊なのです。神の子供とされたという事実は一面、法的立場的なことですが、もう一つの側面は、実質的なことです。それは父はイエス様を信じる者のうちに御子の御霊をくださったので、私たちは神様を父として慕う心を授かったのです。
「私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(8:15,16)
 御子の御霊は、私たちのうちに神様への信頼と愛と喜びをあふれさせてくださいます。自分は奴隷ではない、神様の子どにしていただけたのだという喜ばしい意識を継続的に与えてくださるのです。
 八木重吉という詩人は、この神の子どもとされた喜びをこんなに素朴な詩に表現しています。

 1925年大正14年2月17日より
 われはまことにひとつのよみがえりなり
  
おんちち
うえさま

おんちち
うえさま

と とのうるなり

 主にある兄弟姉妹。天の父は、あなたがどんな働きができるか、どれほどうまくできるか、どれほど献金できるかということでなく、それ以前に、あなたの存在そのものを喜んでいてくださるのです。もし主のためにご奉仕がなにかできるとしたら、それは素晴らしい恵みです。ですが、病を得たり、年を取ったり、急な経済状況の変化で貧しくなったり、さまざまな状況のなかで、自分はなにもできなくなったと落胆している方が、あるいは、いらっしゃるかもしれません。けれど、主は、あなたの存在そのものを喜んでいてくださいます。

3.父の期待に応えて

 罪赦され、かつ、王の子どもとされた元囚人の王家での生活が始まります。これが私たちクリスチャンの教会生活です。私たち一人一人は王子であり王女です。では、子どもは父からその働きではなく、その存在そのものを喜ばれているから、何もしない怠け者となるでしょうか。父は子どもに向かって、おまえは怠け者でいなさいというでしょうか。
もしあなたが国王で、家には使用人と自分の子どもがいたら、あなたは使用人と子どもと、どちらにより多くの期待をするでしょうか。いうまでもないことです。使用人にではなく、自分の子どもに対してより多くの期待をするにちがいありません。なぜなら、子どもは自分の王国を担う相続人であるからです。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
 父なる神様の私たち神の子どもに対する期待は大きいのです。実際、旧約の律法の下にあった人々に対する期待よりも、福音によって救われた神の子どもたちに対する期待のほうがずっと大きいのです。
 イエス様はおっしゃいました。「 (律法の下にある)昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(5:22,23)
「(律法の下にある昔の人々に)『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(5:38,39)
 パウロのことばを引けば、律法には「盗むな」とありますが、新約では「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)とあります。
 この福音の時代、父なる神様から私たちに対する期待は大きいのです。イエスに似た者となるのだよ、わたしに似た者となるんだよと父はおっしゃいます。けれども、子どもが父の期待に応えて働くのは、奴隷のようにびくびくと主人の顔色をうかがうような恐怖からではありません。子が父の期待に応えようとするのは、一方的な恵みをもって注がれている父の愛に対する喜びの応答なのです。私たちが奉仕に励むのは、神様が私たちのお父さんとなってくださって、私たちに愛を注いでいてくださるからです。
 ここにキリストとの共同相続人とあります。教会は、お父さんが父なる神様、お兄ちゃんがイエス様、そして私たちは御子の御霊によって兄弟姉妹なのです。ですから、私たち教会はキリストとの共同相続人です。イエス様と私たちは、栄光に満ちた御国「新しい天と新しい地」を相続する相続人なのです。被造物はアダムの堕落以来、虚無に服しているのですが、主イエスが再び来られるときに、栄光のうちに入れられます。それは想像を絶する神の愛と正義が支配するすばらしい世界です。その世界を私たちは、キリストとともに共同相続して、これを治めるのです。

結び
 私たちは、なにか立派なところがあったから救われたのではありません。ただ罪のかたまりでしたが、神のあわれみの故に選ばれ、御子の贖いゆえに罪赦され義と宣告されたのです。
 そのとき、神は私たちを単に義と宣告するだけでなく、私たちを子として迎えてくださいました。私たちは御子イエスを兄とし、神を父とする神の家族のうちで生きるべく召されたのです。私たちは子ですから、奴隷のように不自由ではありません。感謝と自由をもって、奉仕の生活に生きるのです。
 神の子どもである私たちは相続人ですから、かの日の新しい天と新しい地の栄光をめざして、今の世にあって、父の愛をあかしし、正義が世になっていくように生きて行きます。簡単なことではありません。けれど、あせる必要はありません。胸のうちに深い平安がります。なぜなら、父なる神様が私たちとともにいてくださって、私たちの存在そのものを喜んでいてくださるからです。

おまけ
*ぶたぺんさんの短編小説『王子を殺した男』を読んでみてください。→http://butapenn.com/tan/cross.html