苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈の3側面 実例(その2)

 聖書解釈には、状況的、規範的、実存的の3側面に着目することが重要である。創世記1章において状況的という点は、執筆状況を取り上げたが、状況的面で常に重要なのは、文脈ということである。今回はその一例を紹介したい。聖書箇所はマルコ14:1,2の解釈である。文脈理解のために12:41から引用しておく。

41**,それから、イエス献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。**
42**,そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。**
43**,イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。**
44**,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

1**,イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」**
2**,すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」**

 まず状況を弁えることについて。残念ながら後代の章立てによって文脈が切られてしまっているのだが、14章末尾からの文脈を弁えれば、主イエスの弟子たちに対する2節のことばの意味がよくわかる。すなわち、「ついさっき神殿の中で、君たちは金持ちたちが有り余った中からささげる金貨、銀貨の献金に目を奪われていた。だがわたしは君たちに『神の前に価値ある献金はレプタ銅貨二つの女があるもの全てささげる献金の方が価値あるものなのだ』と話したばかりではないか。それなのに君たちは、またヘロデ大王が自己顕示欲のために建てたデラックスな神殿に感心している。こんなものは神の前には何に価値もないのだ。」主イエスはそう言いたかったのである。

 読み取られる規範的な意味は、「神へのささげ物の価値は、うわべの素晴らしさではなく、ささげる者がほんとうに献身と感謝の思いを持っているか否かにかかっている。」ということである。

 そして、実存的な点については、「一体、私は主の日ごと、また月ごとにささげる献げものは、感謝と献身の表現になっているだろうか。ただ習慣的なものに堕していないだろうか。ときには虚栄心になっていないだろうか。」と突き詰め、もし欠けたところがあったとしたら、神様の前に悔い改めることである。

聖書解釈の3側面 実例

 今日は北海道聖書学院での2023年度最後のカテキズムの授業だった。対象は信徒コースと聴講生たち3人である。時間配分が今一つうまく行かず、最後に1コマ余ったので、聖書的教理体系をカテキズムで学んだ者として、実際に聖書を読んで行くときに、それがどのように役立つのかということを創世記1章を用いてお話した。

 聖書解釈にあたっては、状況的、規範的、実存的の3点が大事である。

 まず創世記1章の創造記事が書かれた状況について。モーセがエジプト脱出を果たしたイスラエルの民を相手に神のことばを伝えているという状況である。イスラエルの民は、月、星、太陽、ナイル川、オオカミ、山犬、フンコロガシ、ワニなどありとあらゆるものを神格化して拝んでいるエジプトに400年も暮らしていた人々である。この状況をわきまえるならば、創世記1章の創造記事の意図するメッセージは、「あなたがたがエジプトで見てきた、神々として祀られているものは神ではない。真の神は、これらすべてを造ったお方だけである。」ということだとわかる。

 こうして第二に、この創世記1章の記事から読み取れる規範的なことは、「真の神は唯一のお方、創造主である。」という教理だということがわかる。また「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。」という十戒の第一戒である。

 そして第三に、創造主なる神のみが礼拝すべきお方であるという教理を、「私の生活にどのように適用すべきか?」と実存的につきつめることである。自分の生活の中で創造主以外のものを、神としていることはないか?と自問してみる。クリスチャンであれば、あからさまな偶像崇拝はしていないだろうが、もし神よりも世間体を恐れていたら世間体を偶像としていることになる。また、トイレで腰を下ろしても、電車でつり革にぶら下がっても株価の上下が始終気になって仕方ないならその人は金銭を偶像化するマモニズムに陥っているのである。自分が偶像崇拝の罪を犯して来たことを神の前に告白して、悔い改める必要がある。

 

「存じ上げません」?

シリーズでもありませんが、気になる妙な日本語。
安倍派の塩谷さんは、裏金問題の件で政治倫理審査会に引っ張り出されて、「(裏金問題の経緯については)存じ上げません」と何度も言って、新聞の見出しになっていましたが、なんか変だな、気持ち悪いなあと感じました。調べてみたら、「存じ上げる」というのは知る対象が人である場合の表現です。誰それに敬意を表すための謙譲表現です。ところが「裏金問題の経緯」は物事なので、「存じ上げません」ではなく、「存じません」が正しい日本語です。 

説教に向けての聖書解釈の3つの側面

表題の文章を、「神学ノート」に掲載しておいたので、ご一読ください。

清水武夫先生が神学校で言われたことについて、神学校卒業後、聖書解釈についてずっと考えて来たことです。

リンク先 

ameblo.jp

 

初めてのMRI

 今日の午前中は二軒、訪問。お年を召したご夫妻は前回うかがったときよりも、ずいぶん元気になって来られたようすで感謝でした。
 午後は、生まれて初めて市立病院にMRI検査を受けてきました。副鼻腔炎手術の準備です。銀行の金庫の扉みたいなのの奥に、巨大な卵のような、ドーナツのような白い機械があって、寝台に寝かされて頭を固定され、ドーナツの穴に頭をつっこむというものでした。検査中は、ガチャガチャうるさくて、トムとジェリーのアニメの映像だけが流れていましたが、ちょっと睡眠不足だったので途中で寝てしまいました。全体で20分ほどの検査でした。少し面白い経験でした。

ライトの聖書解釈法は本質的に間違っている

1 ライトの新約聖書の読み方

 日本長老教会によるN.T.ライトに関するレポートで、ライトの聖書理解の手順が示されている(37ページ)。ライトは、聖書のある概念を理解するには、まず第二神殿期のユダヤ教文献を読むことが必須であるとする。


①まず第二神殿期のユダヤ教文献においてそれがどのように教えられているのかを調べ、
②次にユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じてあると仮定し、これを新約聖書の解釈に適用する。
③そして最後に旧約聖書を開き、第二神殿期のユダヤ教文献および新約聖書とのつながりを確認する。

 一見もっともらしく見えるこの新約聖書の読み方は、ほんとうに正しいのだろうか?長老教会の文書も「次にユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じてあると仮定し」と書いているように、ここが怪しい。もっとも、同時代文化との類似性から聖書を読むという方法はライトのオリジナルというわけではなくて、自由主義の聖書学でごく普通に用いられているものにすぎないのだが。

 

2 ある哲学教師から教わったこと

 私は大学時代、国文から哲学科に転じてもろもろの哲学書を読み始めた時に、ライプニッツパスカルサルトルなどを研究しておられたI先生に「これから哲学書を読んで行くにあたって、哲学用語がわからないので、何か哲学辞典を手に入れたほうがいいのでしょうか?」と質問したことがある。するとI先生は、「いや、哲学辞典には通り一遍のことしか書かれていないものです。哲学者というのは、自分の思想を表すために、その用語に独特の意味を込めるものなのです。ですから、哲学辞典は要らない。自分の脳をしぼって、その哲学者の書物を繰り返し読んでいくことによって、その思想を読み取り、哲学者がその用語に託した意味を理解することが大事です。」とお答えになった。
 ある語というものは、文脈の中で意味を獲得しているものである。その同時代文化の中で話題となっている語がどのような意味で一般に用いられているかを調べて、参考になることもないではない。たしかに文章が公的表現である以上、少なくとも表面的な意味では時代文化とその書物の間で共通のものがあるはずである。しかし、それは表面的なことにとどまる。深いところの意味を正確に読み取ろうとするならば、前後の文脈の中で、次にその書全体の中で何を意味しているかを読み取ること、さらに同じ著者の書いた他の書物の中でその語がどのような意味で用いられているかを読み取ることが必要である。その哲学思想が斬新なものであればあるほど、そこで用いられる語の意味は同時代の文化の中で用いられている場合の意味とは大きく隔たっているのである。

 たとえば、「良識(ボン・サンス)」という用語の意味は世間的な意味と、デカルトが用いる場合の意味とは相当に隔たっている。デカルトが「良識」という語で意味するところは、デカルト自身の書物を丁寧に読むほかに理解しようがない。デカルトの良識とは論理的理性という意味である。これは無論、哲学書を読む場合に限らず、書物を読む場合に大事な原則である。聖書の例を挙げれば、ヨハネ福音書冒頭の「ロゴス」は、当時のヘレニズム世界の人々が誰でも知っているストア派の用語であった。ではストア派のいう世界を構成する原理という意味で、ヨハネ福音書を読めるかというとそうではない。「ロゴスは人となって私たちの間に住まわれた」と記者はいうのである。これはストア派ではありえない話であり、当時の世間一般のロゴスとは異なるところにこそ、聖書が伝えたい啓示がある。

 

3 ライトの新約解釈法は間違っている

 I先生に教わったことから言えば、「1」で述べたライトの新約聖書解釈の方法は大きく間違っている。例えば「罪」という語についてライトが同時代のユダヤ教文献をあさってみた結果、イスラエル民族が神に対する不信の罪を犯したことを意味し、バビロン捕囚以来、イスラエルが異邦人の支配下に置かれていることが主からの罰を意味していたのだということを知った。つまり、ライトは第二神殿期における罪観とは神に対する民族的な罪であって個人的なものではないということを見出したわけである。そして、ライトはその意味で新約聖書における「罪」、特にパウロ書簡における「罪」という用語は理解されなければならないと考えた。これが間違いである。さらに、そこから推論して贖いとは神がイスラエルの民を救って義と認めてくださることであると考えた。・・・これが間違いである。

 実は、わざわざ当時のユダヤ教文献をさがすまでもなく、福音書を読んでみれば、第二神殿期にイスラエルの民の中に一般には、ライトがいうような民族的な罪観・贖い観が多く見られる。福音書使徒の働きに登場するユダヤ人たちは、ローマ帝国支配下に置かれている自分たちは、神の懲罰の下に置かれているのだと意識していた。老シメオンは「イスラエルの慰められることを待ち望み」(ルカ2:25)、老アンナは「エルサレムの贖いを待ち望んで」(ルカ2:38)いたし、イエスを王として担ぎ出そうとする民衆もイスラエルの民族的・国家的回復を待望していたし(ヨハネ6:15)、イエスの弟子たちもイエスが王となりイスラエル王国が復興することを待望していた(マルコ10:37、使徒1:6)。彼らが、イスラエル民族が神の懲罰の下にあるという意識を持っていたのは、申命記士師記をはじめとして、イスラエル背信的行為に走るなら、神は異邦人によってイスラエルに懲罰を与えるという思想と実例が書かれているから当然のことである。ライトが第二神殿期のユダヤ教文献において見出した罪理解は、新約聖書ユダヤ社会の人々が一般に持っていた罪理解なのである。

 

 ところが、主イエスがもたらした福音、使徒パウロが啓示によって知った福音における罪の意味と贖いの概念は、第二神殿期の一般的な民族的な罪観・贖い観と異なっていた。異なっていたから、身近な弟子たちからさえ誤解もされ、ユダヤ社会で物議をかもした。カペナウム宣教で、主イエスが「友よ。あなたの罪は赦された。」(ルカ5:20)と宣告した相手は、イスラエル民族でなく、一人の中風の男だった。そして主イエスは彼に向かって、「子よ。あなたの罪は赦された。」と権威をもって宣言なさった(マルコ2:1—12)。主イエスがたとえ話に持ち出した一人の取税人は、宮にやって来ると、目を天に向けようともせず、胸をたたいて「こんな罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と言った。彼はイスラエル民族の罪でなく己の罪を神の前に嘆いている。福音書に登場する罪に苦しむ人々は、ライトがいうようにイスラエル民族の国家としての罪ではなく、個人としての神の前の罪に苦しんでいる。そして、主イエスはこの取税人は神の前に義と認められて帰っていったとおっしゃる(ルカ18:14)。罪とは個人の神の前の罪であり、赦し・義認とはその人に対する神の宣言なのである。

 また使徒パウロが、ローマ書1章18-32節で挙げるもろもろの罪とは偶像礼拝、同性間性交、不義、悪、むさぼり、悪意、殺意、争い、悪だくみ、陰口、そしり、神を憎むこと、人を人と思わぬこと、高ぶること、大言壮語すること、悪事をたくらむこと、親に逆らうことというふうに、異邦人たちの犯すさまざまの個人的罪である。2章に入ると神の民を自認し異邦人を軽蔑しながら、陰で同じように盗み、姦淫など諸々の個人的罪を犯しているユダヤ人一人一人の欺瞞、偽善の罪を指摘している。そうして、パウロは異邦人もユダヤ人も併せて「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)と断じるのである。そうした個々人の罪からの贖いのために、イエス・キリストが宥めのささげ物として公に示され、それを根拠として個々人の罪が償われ、義と認められたのであると告げる(ローマ3:24,25)。以上のように、主イエスの罪理解と救いの理解、パウロの罪理解と救いの理解は、個人の罪ということと、その罪を神がゆるしてくださるということである。

 なぜ主イエスパウロの福音は、当時のユダヤ社会における一般的な罪理解と贖い理解とかけ離れて斬新なものだったのか。それはイエスの福音が当時のユダヤ教文化から生じたものではなく、天からの啓示だからである。パウロは言う。「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)ヨハネ福音書はイエスについて言う。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(中略)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:1,14)

 新約聖書を正しく読もうとするならば、当時のユダヤ社会における言葉遣いについて通り一遍のことしか記されていないであろう第二神殿期のユダヤ教文献を渉猟するよりも、聖書におけるイエスのことば、パウロのことばそのものをしっかりと読むことが肝心である。