苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

駐車場の雪

 おととい駐車場の圧雪を不十分ながら、ざっとすませてお見舞いに出かけたのですが、そのあとまた吹雪いてきてしまって、土曜日にはどうだろうと思って教会にやってくるとビックリ。全面キレイに圧雪されて、縁のほうも、きれいに雪が寄せられているではありませんか。

 「あーイエス様がしてくださった。」と感謝しました。でも。どうもいつものイエス様ではないようで、不思議だなあと感じておりましたら、今朝、そのイエス様とはS兄だと判明しました。こんなふうに助けられて、なんとかやっております。

お見舞い

 昨日は終日北海道聖書学院にいて、帰宅したのは8時を回っていました。今朝、澄川にある病院に、Y姉のお見舞いにうかがうことを思いつつ目がさめて、カーテンを引いてみたら、雪が積もっています。食後、妻といつものように為政者たちのこと、教会の兄弟姉妹のこと、家族のこと、その他もろもろのためにお祈りをして、会堂に雪かきに出かけると、たぶんT先生がすでに東側の歩道の雪はどけてくださっていました。感謝。

 残りの雪かきと圧雪をざっとすませたあと、Y姉のお見舞いにうかがいました。吹雪いている中を走って10時に到着すると、空は晴れ上がり、Y姉の夫君と娘さんが待合にすでにいらっしゃいます。Y姉の枕頭でご様子を見ると、私が想像していたよりもお元気そうでした。Y姉はご主人を見て、「ちゃんとご飯食べてるの?」と心配なさいます。娘さんが「今は、お父さんといっしょに暮らすようにしているから、大丈夫だよ。」と言われと、安心されたご様子。ご自分が病気でも家族の食事、健康を思いやる。さすがに神様が聖書に啓示されたように、エバーすべていのちあるものの母ーの娘だなあと思いました。

 コロナ下のルールでお見舞いが極度に制限されているので、なかなか会いに来ることもできないもどかしさをご主人も娘さんも感じているのですが、病床で一人過ごすY姉はなおのこと寂しく感じていらっしゃいます。

 私は持参したB5の紙に、「主イエスの御名を呼ぶ者は、だれでも救われる。」(ローマ10章13節)と、その場でサインペンで書いて差し上げると、ベッドの横にある戸棚に、看護師さんが貼ってくださいました。想像したよりお元気そうに見えたとはいえ、退院のめどが立つということでもありません。主が姉妹の枕辺にいて、その闘病生活を支えてくださるように、姉妹がイエス様の名を呼び続けられるように祈っておいとましました。

遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』

 遅塚忠躬『フランス革命ー歴史における劇薬』という本を読んだ。何十年ぶりかに読んでみると、よく書けているなあという感想。
 「劇薬」というのは、効能がある代わり恐るべき副作用があるという意味である。フランス革命は「自由・博愛・平等」というスローガンはまことに理想主義的であるが、この革命の中で内戦も起こり、自国民を100万人以上も死に至らせた。
 <貴族・ブルジョア・民衆と農民>という社会構造があって、ブルジョアと民衆・農民はともに「平民」に属している。ブルジョアは資本主義の邪魔になる封建的な諸制度をなくして自由市場がほしい。民衆・農民はとにかくパンが欲しい平等が欲しい。
 まずブルジョアが中心になって、民衆・農民の協力を得て、自由を実現しブルジョアを富ませる立憲君主制を実現する。しかし、革命に協力した民衆・農民としては生活が改善されないので飽き足りず、平等を実現するため身分制度の廃止を求め、ついに身分制度の頂点にいる国王を処刑し、教会の司祭たち、貴族たちをもギロチンにかけてしまう。さらにわずかばかりの農地を持っている農民たち(プチブル)は、土地を取り上げられてしまうことを恐れて反対したので、内戦が起こり殺戮劇が展開され、数十万の農民が命を落とした。
 興味深く思ったのは著者のスタンスである。フランス革命を礼賛するのは左派であり、フランス革命を罵倒するのは保守派であるが、著者はフランス革命の「情熱」にはある共感を示しながら、他方で明治維新の元勲岩倉具視の病床を訪ねた青年の明治天皇の写真を紹介したりして、天皇にも同情的な様子である。著者はフランス革命には偉大と悲惨の両面があるとしている。要するに戦後民主主義の枠組みの中にある割り切れない象徴天皇制の支持者なのだろう。

 私は全共闘世代よりも5年ないし10年くらい下の世代で、安田講堂陥落や浅間山荘事件やよど号事件をニュースで見て来た。理想主義的・左翼的革命というものの悲劇的な運命は、フランス革命からすでに予見されていたのである。本書は岩波ジュニア新書の一冊である。ジュニアというのだから、中学生に読んで欲しいというつもりの本なのでやさしく書かれているが、中身はなかなか濃い。

<追記 同日>

 著者は本書でフランス革命における「文化」については書かなかったから、宿題として自分で勉強してほしいとしているが、恐らくこの「文化」の問題が革命を悲惨なものにしてしまった理由なのだと思う。社会の文化・道徳的価値というものは、伝統的権威によって支えられているものであるが、かつてフランスにおいて、それは王室と教会であった。その二つの伝統的権威を単純すぎるデカルト的理性でナンセンスと否定してしまったために、フランス革命は暴走してしまったのだと思われる。それは同じ市民革命であり、王を処刑しながらも、社会の崩壊を見なかった英国の市民革命と比較するとわかってくることである。

沢山の錠剤は丸飲みにする

 長年、幸いなことに薬と縁のない生活をしてきましたが、昨年春、ふと思い立ってエビオス錠という古典的な整腸剤を飲み始めました。製造元はアサヒビールで、中身はビール酵母です。これを一日三回9錠ずつ飲みます。これは薬というよりサプリみたいなものです。さらに、7月だったかコロナにかかったあと、鼻の調子が悪くなり副鼻腔炎と診断されてしまいました。それで薬がさらに3~4粒増えました。

 十幾つもの錠剤を一個ずつ飲むと結構飲みにくいものです。たくさんの薬を飲む方法は、一個ずつ飲むのでなく、いっぺんに全部手のひらに乗せて、口に入れて水で流し込むと簡単に飲めてしまうことを発見しました。慣れている人には常識でしょうが、たくさん錠剤を飲まないといけなくて、苦労している方にお勧めです。

同性間性交について聖書はどう教えているか

1 神は公正を求める

 LGBTQを容認する神学は、いわゆる「解放の神学」の系譜の中に現れた。「解放の神学」の発端は米国資本によって収奪されていた中南米貧困層の解放運動のため戦った神父たちの主張である。「解放の神学」が国家体制に与(くみ)してきた伝統的神学が見落として来た聖書の視点を新たに提供したことは功績とされるべきである。

 この「解放の神学」がさまざまな少数者・弱者の解放に適用されることになり、中南米貧困層のみならず、米国社会で差別されてきた黒人、日本における被差別部落出身者、身体障碍者、女性に適用されてきた。そして、今日LGBTQに適用されている。「解放の神学」が旧来の聖書解釈の誤った点を正したのは事実であり、それは有意義なことである。しかし、だからといって聖書は少数者の行動であれば、みな是とせよと教えているわけではない。

 確かに聖書は、 「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」(申命記10:16-19)と教えている。それは、多数者はえてして少数者を不当に抑圧しがちだから戒めているのである。また、裁判官は権力や富のある者、多数派に偏ったさばきを行いがちであるから警告を与えているのである。

 だが、少数者・弱者ならばなんでもOKだと聖書が教えているわけではない。 さばきは、弱者・強者にかかわらず、身分の高い低いにかかわらず、多数者・少数者にかかわらず、公正であるべきだと聖書は教える。

「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。」(申命記1:17)

「不正な裁判をしてはならない。弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しくさばかなければならない。」レビ記19:15

 それゆえ私たちはまず、聖書が同性間性交を是としているか非としているかを正しく読み取らなければならない。

 

2 同性間性交に関する聖句

 

(1)創世記における、神が定めた結婚の秩序

創世記1:28

「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」

創世記2:24

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

 創世記1章、2章は、同性間性交を明確に禁止している箇所ではない。しかし、創造つまり堕落前の正常な状態において、神は、性交は夫婦(男女)の間で行なわれるものとして定めたことを教えていることは確かである。男女の性交でなかったならば、生むことも増えることもありえなかった。

 

(2)旧約における同性間性交の禁止

レビ記18:6-25の特に22節

「6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。・・・(以下もろもろの近親相姦リスト中略)・・・

20また、自分の同胞の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。

21また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。

23動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。

24あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、

25その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」

 

 カナンの住民たちが滅ぼされた理由となった諸々の習俗(近親相姦・姦通つまり異常な異性間性交・月経中の性交・モレク神への子ども奉献・獣姦)と並んで、同性間性交が禁じられている。同じような文脈で、レビ記20:13も同性間性交が禁じられている。読者は自分で文脈を吟味されたい。

「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)

 レビ記の律法は必ずしも新約の時代には適用されないから、同性間性交は問題ないという主張がある。だが、上記のような性にまつわる姦通・獣姦などの罪のリストの中の一つに同性間性交があることを見れば、その主張が間違っていることは明白である。

 

(3)新約における諸々の罪のリストの中の同性間性交

 使徒パウロは、神の国を相続できない諸々の罪のリストの中に、男色をする者を挙げている。 

 「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者(アルセノコイタイ)、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:9、10、11)

 「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」(1テモテ1:9,10)

 LGBTQを容認する人々は上記のアンダーラインのことば「男色をする者」と訳された「アルセノコイタイ」は男性売春、性的虐待を限定的に指しているのであって、同性間性交を一般に罪としているわけではないと主張する。だが、この主張は間違っている。理由は以下の通り。

 第一に、紀元1世紀のユダヤ人ヨセフスによれば、当時、男性同士の性行為は禁止されていた。

 第二に、当時、男性売春、性的虐待を意味することばとしては、普通にはパイデラスタイ、パイドマナイ、パイといったことばが用いられていた。もしパウロが男性売春、性的虐待を意味したかったならこれらの語を使ったはずである(Robert Garnon,The Bible and homosexual Practiceを参照)。 しかし、パウロはこれらのことばを使わず、わざわざアルセノコイタイという語を使った。アルセーは男性を意味し、コイテーはベッドを意味する。「アルセノコイタイ」は、パウロレビ記20章13節の70人訳ギリシャ語聖書のことばから造語したのである。

「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)

καὶ ὃς ἂν κοιμηθῇ  μετὰ  ἄρσενος κοίτην γυναικός, βδέλυγμα ἐποίησαν ἀμφότεροι· θανατούσθωσαν, ἔνοχοί εἰσιν.(70人訳)

  パウロがこの語を用いたのは、男性売春、性的虐待に限定せず、レビ記を背景として「男と寝る者」「男色」という広い意味で使うためである。レビ記の戒めを背景として、同性間性交は、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、酒におぼれることといったもろもろの罪と同列にされる罪であるパウロは教える。

 1コリント6:10-11から私たちが学ぶべきことは2つある。
 第一は、同性間性交という行為は神の前に罪であるということである。同性間性交という行為は、偶像礼拝、姦淫、窃盗といったことが単なる嗜好の問題であると片付けられないのと同様に、単なる嗜好として片付けてはならない。

 しかし、第二に注意すべきことは、同性間性交という罪は、偶像礼拝、淫行、姦淫(つまり則を越えた異性間性交)、窃盗、略奪、泥酔その他のコリントの住民の習俗のうちに見られたもろもろの罪の一つとして扱われているということである。不道徳な町コリントの人々の中から救い出された者として、これらの罪に逆戻りしてはならないと警告しているが、これらの罪を再び一度でも犯したら悔い改めの余地なく地獄行きだなどと教えているのではない。文脈をたどれば、パウロは前の5章で罪と戒規の問題を扱っている。戒規は本人の悔い改めと救い(1コリント5:5)、教会全体への罪の感染防止のためになされる(1コリント5:6)。しかし、もし同性間性交の罪を罪と認めて悔い改めず、常態的に罪に溺れる生活をしているならば、その人は神の国を相続できないと警告しているのである。だから続いて、もしキリストを信じる者となったのに、これらの罪に陥ってしまったときには、戒規を受けて悔い改めて主に立ち返れと勧めているのである。

「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:11)

とある通りである。だから、同性間性交は罪に当たらないと教えることは、誤りであり、危険なことである。それは偶像礼拝も窃盗も姦淫も殺人も罪に当たらないと教えることと同じ程度に危険なことである。

 

(4)断罪される同性間性交

 レビ記と1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では、偶像礼拝の罪の後に、女性の同性間性交が「自然に反するもの」つまり神の創造の秩序に反するものとして挙げられ、その後に、もろもろの罪のリストが掲げられている。

 「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:26,27)

 文脈を無視して「自然に反するもの」ということばだけを切り取って、「本人にとって同性間性交が自然な場合には罪に当たらないのだ」という主張する学者もいるようである。だが、これはまったくローマ書の文脈を無視した解釈であって、正当な解釈とは言い難い。パウロはローマ書1章後半で異邦人の罪をリストアップし、2章でユダヤ人の偽善の罪を述べ、結論として「ユダヤ人もギリシャ人もすべての人が罪の下にある」と述べて、キリストの贖罪によるほか救いの道はないと述べている。その流れの中の異邦人の罪の中の一つとして同性間性交を取り上げているのである。

 以上のように、聖書が同性間性交を罪と定めていることは、疑いようのない事実である。もし「聖書は誤りのない神のことばである」という信仰告白に立つならば、同性間性交は罪ではないというわけには行かない。「聖書は誤りのない神のことばである」という信仰はナンセンスであるという立場の人々が、同性間性交は罪ではないというならば筋が通っているが、「聖書は誤りのない神のことばである」と言いつつ「旧来の同性間性交を罪とする聖書解釈は間違っていた。聖書は同性間性交を容認している。」という主張をするのは、非常に無理がある。

 

3 同性に性的指向を持つことと、同性間性交という行為をすることは区別されるべきである

 

 同性に性的指向を持つ人々は一定数存在する。アンケートの取り方によってその結果はばらつきがあるので、実態はよくわからないにしても一定数存在することは事実である。原因については、先天的要因があるとも後天的要因によるとも言われる。ただし、テモテ・コール師のレポートによれば、性同一性障害が先天的なものであると先頭に立って主張してきたジョンズホプキンス大学医学部は、近年その見解を翻したそうである。

ジェンダー部門の研究をしていたマクヒュー博士は、性同一性障害は、先天的な要素も少しはあるかもしれないが、ほとんどが後天的なものであると主張し、学部長の時、性転換手術やホルモン治療を一切やめた。やってはいけないことと主張した。」

また、

「ジョンズホプキンス大学医学部は性転換手術を開発したが、追跡調査により性転換手術者の自殺率が一般の人の20倍ほど高くなっていることが判明し、方針を変えた。」

 ともレポートされた。

 「先天的な指向であれば、本人にはどうしようもないことなのだから、それはそのまま是とされるべきである。ありのままでよい。」という主張がある。しかし、聖書を神のことばであると信じるキリスト者は同意できないだろう。なぜなら、聖書は、人類はアダムにあって堕落したために、全ての人はそれぞれ生まれながらに、同性への性的指向にかぎらず何らかの罪への指向を持っていて、それ自体、罪深く残念なことであると教えているからである。主イエスは「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27,28)と教えられた。堕落後の男性のほとんどは情欲を抱いて妻以外の女性を見てしまうという先天的な堕落した傾向性を持っていることを知っていて、主イエスは、それをありのままでよいとはおっしゃらず、それは神の前で罪なのだとおっしゃった。

 私たちは先天的な罪への指向に加えて、後天的にも罪への指向をもつようになる。偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った元異教徒の中には、回心して後も偶像の宮に親近感を抱いてしまう場合がある。そうした感覚をもっていることは神の前には罪なのだが、教会はその感覚を断罪することはできないし、すべきでもない。しかし、偶像崇拝を実行してしまえば罪であるから、悔い改めが必要である。また、泥棒の家庭に育ち、幼い日から手際よく盗むとほめられて育てられて、盗癖がついてしまった人の告白を読んだことがある。そういう盗みへの指向を持っていることは神の前では罪なのだが、教会は盗みを実行しなければ断罪することはできないし、すべきでもない。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪であるから、悔い改めが必要である。

 アダム以来の原罪を受け継ぎ、かつ、この堕落した環境の中に生まれて来た我々は、同性に性的指向を抱くことに限らず、多かれ少なかれそれぞれに先天的・後天的に何か罪深い行為への指向を持っていて、それは残念な現実であり、キリスト者であればその罪に苦悩し抵抗し悔い改めつつ生きている。教会は、それを実行しなければ断罪すべきでなく、むしろ、キリストにある赦しと希望を告げ励ますべきである。しかし、実行した場合には、悔い改めてキリストに立ち返るように導く必要がある。

 私たちは1コリント6:10,11に列挙される、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、同性間性交、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、泥酔といった神の国を相続できなくさせるもろもろの罪に陥りやすい傾向性を先天的あるいは後天的に持ってしまっている。教会は、そういう傾向性があることをさばくべきでなく、そういう罪を犯さないように戒め励まし導くべきである。万が一、そうした罪を実行してしまったならば、悔い改めを促し、回復のために祈るべきである。先天的あるいは後天的に、同性に性的指向を持っていることを教会は断罪すべきではなく、同性間性交という罪を犯さないように戒め導くべきである。だがもし同性間性交を実行するならば、悔い改めを促し、回復のために祈るべきである。キリストにあって義と認められたとはいえ、今は聖化の途上にある私たちは一人として完璧に罪性から解放された者はいないのだから、ともに日々罪を悔い改めつつ、御国の到来を待ち望みつつ生きて行くほかない。

 

終りに 

 LGBTQを認めることは時代のトレンドであり、それを認めない米国の教会はひどい目にあっているということを聞く。日本でも近々そのような社会情勢になるだろう。この時代にあって、改めて私たちは次のことばに目を留めたい。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ12:1,2

 

 

 

 

東京の雪嵐

 月に一度、苫小牧駅朝6時27分に乗って、東京渋谷の幡谷事務所で会議のために上京するのですが、今日は午後雪が降り始めて、夕刻8時に会議を終えてもまだ降っていました。出てみると吹雪です。

  会議終えて 外に出たら ブリザード

 

 

 

寝耳に雪

 「雪が積もっているわよ。雪かきに行かなくちゃ。」

 昨夜の天気予報では「晴れ」だったのに、朝起きたら、雪が15センチほど積もっていました。今年は苫小牧、雪がやや多いようです。