今朝、霞が立ちました。
摂氏2.5度。
苫小牧にも春の訪れです。
うーんカッコいい。
近所のO牧師がメルカリで見つけて譲ってくださった会議用カメラのための棚を、聖餐卓を作ってくれたあの建具屋さんのAおじいちゃんに作ってもらいました。礼拝のネット配信に使います。
もとはビデオ会議システムはウン十万円もするものだったのですが、今はZOOMができたので需要がなくなって、ビデオカメラだけが1万円程度で投げ売りされています。
リモコンで操作します。あらかじめアングルを6種類設定しておけば、ボタン一つでそのアングルにスムーズに移動します。もとはマイクと連動して、発言者にカメラが自動的に動くものだったそうです。
なぜこれをもちいようと考えたかというと、ビデオ配信で説教者だけに映像を固定していると、視聴者は一人で説教者に向かっている印象になります。それで、ともに礼拝している兄弟姉妹を意識できるような映像を入れられないかなあとO牧師と話していたのです。それを普通に手動ですると、どんなに上手にしようとしてもガタガタしてしまいますが、このカメラならスムーズにできます。
マタイ福音書末尾の大宣教命令を新改訳2017は「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としさない。云々・・・」(マタイ28章19節)と訳しているが、これはいかがなものか。「あらゆる国の人々を」はパンタ・タ・エスネーであり、同じマタイ福音書2017訳は24章14節は「すべての民族に」(パーシン・トイス・エスネシン)であって、前者は対格、後者は与格という違いだけである。翻訳者は、「あらゆる国の人々」と「すべての民族」の意味の重大な違いについて認識しているのであろうか。邦訳聖書のうちでは新共同訳は「すべての民」と訳していて、これは正しい。
使徒パウロは国外宣教師ではない。彼はローマ帝国内のさまざまな異民族に伝道して回ったのである。主イエスは国外宣教でなく異民族宣教を命じられた。これまでイスラエル民族の中に限られていた神の王国を、あらゆる民族に広げるために宣教したのである。今、日本列島にもさまざまの民族が暮らしている。特に故国が強力なイスラム政権であったり、過激な仏教政権とかであると、故国では福音に触れることもできない人々が、日本にいる間であればキリストの福音を聞くことが許されている。わざわざ莫大なお金を使ってキリスト教が禁止されている国に出かけて、「この国では伝道ができない」と嘆く必要はない。日本にその国から来ているその民族に福音を伝えればよいのである。
日本の教会は、どうも国外宣教という枠にとらわれてしまって、国内でできる異民族伝道をないがしろにしてきたのではないか。「国外宣教」という非聖書的概念を取り払って、「全民族宣教」と改めて意識を刷新する必要がある。
昨夕は、JECA関東4地区主催の2.11ZOOM集会で、お話をしました。結構多くの方が集われたようです。2.11集会ですが、多くの人が参加できるようにと、一日ずらしました。主題は「聖書眼鏡で『教会と国家』を見る」ということで、三つの聖書眼鏡を用意しました。
ローマ13:1‐7
聖書眼鏡で「教会と国家」を見る レジュメ
序 俗権という語
1 聖書眼鏡1:俗権の二つの顔・・・二つのR13章
(1)神のしもべの顔・・・ローマ13:1-7
①神のしもべ・・・異教徒の王であっても
②2つの務め:剣による社会秩序の維持(3-5)、徴税・富の再分配(6,7)
(2)悪魔の手先の顔・・・黙示録13章
①「産みの苦しみ」:繰り返される再臨の前兆
②俗権の悪魔化
「海から上ってくる獣」(1節)・・俗権、
「竜」(2節)・・・・・・・・・・悪魔
「地から上って来た獣」(11節)・・偽預言者
③悪魔化した俗権のふるまい
神の民を迫害し神を冒涜します(6節)。覇権主義(7節)。
偽預言者による思想・宗教統制(11,12節)。
経済統制による弾圧(16,17節)。
(3)歴史上の実例
北イスラエル王国初代王ヤロブアム1世はによる金の子牛崇拝。バビロンの王ネブカドネザルの金の柱崇拝強要。ヒトラー、第二の獣の役割を果たしたのは「ドイツ的キリスト者」。国家神道体制下:現人神天皇は第一の獣、第二の獣の役割を果たしたのは文部省。文部省は、教育勅語(明治22年)という教典をもって思想統制をした。日本の教会も偽預言者化した。背後には龍がいた。 現在ロシアの大統領は第一の獣、ロシア正教の大司教キリル1世は第二の獣。背後には彼に力を与えた龍がいる。
2 聖書眼鏡2:律法と王・・・・・・・・申命記17:16-20
王はサタンの罠に陥らぬように注意せよ。
(1)王は自分のために馬を増やすな、民をエジプトに帰すな
①王は馬を増やすな・・・軍備拡大に警戒 16節
②民をエジプトに帰すな・・・棄民政策の禁止
(2)棄民政策・・・沖縄とシベリアで
①沖縄
日本国憲法が施行された直後の1947年9月中旬、昭和天皇が沖縄を米軍の基地として占領し続けることを希望するメッセージを米国国務省あてに送りました。
②シベリア抑留
日本兵63万人が抑留され、6万7千人が極寒の地の劣悪な労働環境における強制労働で死にました。日本兵士をソ連に売り渡す密約が結ばれたという史料が明るみに出てきました。国体護持と引き換えに、日本政府は63万人を労働者としてソ連に提供したのです。
「棄兵・棄民の責任を問う」訴訟。下に掲げたのは大河原壽貴弁護士のことば。
出典 https://www.daiichi.gr.jp/publication/makieya/p-2008s/p-05
koumichristchurch.hatenablog.jp
王は律法に制限された。近代憲法が俗権から守るものは、人民の自然的権利、すなわち基本的人権です。英国の名誉革命を支えた思想家はジョン・ロック『市民政府論』(岩波文庫、1968年)。
②日本国憲法は日米合作の「奇跡」である
4原則<象徴天皇・国民主権・基本的人権の尊重・戦争放棄主義>1947年施行
a 日本を軍国主義から解放することを意図した親日派知識人の周到な米国の研究
自由民権運動家、特に植木枝盛(1857-1892)の思想。儀礼的天皇、国民主権、人権尊重。
GHQ民政局の担当者が注目し回覧し、取り入れられた。
*詳細:HP水草牧師の書き物⇒ 歴史思想倫理⇒「聖書と歴史でこの国を考える」の第二部
1946年1月24日、幣原喜重郎首相はペニシリンのお礼にマッカーサーを訪問し、戦争放棄条項を憲法に盛り込むことを提案した。
d 帝国議会での審議
マッカーサー草案は、帝国議会にかけられて審議・修正された上で、公布された。
3 聖書眼鏡3 帝国と属州・・・・マタイ2:1-8、ヨハネ11:49,50
(1)属州エリートは帝国のために政治をする
リチャード・ボウカム『イエス入門』(新教出版社2013年)に次の一節。
「帝国はなによりもローマ人と彼らを支える属州のエリートたちの繁栄のために存在していたという事実を。ローマはたいてい地方のエリート支配者たちと共同で属州を統治した。したがって、ローマがユダヤ地方で大祭司とその議会の協力を求めたのは自然ななりゆきだった。」(p39)
(2)日米地位協定
戦後GHQが駐屯していた時代の日本の政治体制は1世紀のローマ帝国下のイスラエルの状況に似ています。ピラトの位置にマッカーサーがおり、ヘロデ大王の位置に天皇がおり、サンヒドリンの位置に日本政府。実は、国民の目には隠されてきましたが、現代に至るまでこの構造は同じ。
日米地位協定(1960年~):日本全土は潜在的に米国の軍事基地・米軍基地の無期限使用・米国軍人と軍人家族は治外法権。現在も横田空域(関東甲信越上空)の制空権は米軍にある[ 前泊博盛『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社、2013年)を参照。]。日米合同委員会は、日米地位協定の実施に関する協議機関。
郵政民営化・原発政策・TPP・集団的自衛権行使といった政策は、日本国民のためでなく、米国の「年次改革要望書」に従って進められて来た。
4 現在:グローバリズムによる「国民国家」の崩壊と「戦後レジームからの脱却」の矛盾
(1)大企業の無国籍化
(2)第一次・第二次安倍政権「戦後レジームからの脱却」=「戦前レジームへの回帰」
結び
①預言者として、みことばの眼鏡と歴史の眼鏡で国家の動向を見抜く。
②祭司として、何よりもまず為政者たちのためにとりなし祈る。
(1テモテ2:1,2)
③王として、参政権を行使する。
拙著『新・神を愛するための神学講座』(地引網出版)の第二十章「教会と俗権」を参照。
週報を印刷するインクジェットプリンターが、先週から紙をうまく拾えず、頻繁にエラーが出るようになりました。2年トラブルなく使って来ましたが、これはローラーゴムの劣化でしょう。クリーニングシートを通しても効果がなく、ローラーを水で拭いてもだめなので悲観しかけましたが、ガムテープで丁寧にきれいにしたら、拾うようになりました。とりあえず明日の週報はなんとかなりそうです。感謝。ちなみにアルコールはゴムを固くするので、逆効果だそうです。
でも、ゴムの劣化は疑いないので、ローラーゴムのクリーナー液をアマゾンで注文しました。リソグラフも数年たって紙を拾いにくくなっていますから、あちらにも使えます。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09VPKQ54B/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o00_s00?ie=UTF8&psc=1
少し春の兆しが見え始めた昨日でしたが、今日はまた寒くなりました。でも、光の強さに春を感じますねえ。朝の祈り会のあと、午後は入門クラスで、今日は神様が唯一絶対のお方であることと、その神様が三位一体であること、そして、神様が三位一体でいらっしゃるということが、神が愛であるということなのだと学びました。
「お祈りの中で、子どもたちが父なる神様に祈っているのだか、イエス様に祈っているのだかわからなくなることがあるんですが・・・。」というお話がありました。もちろんスタンダードには、<聖霊に促されて、イエス様の御名によって、父なる神にいのる>のですが、イエス様と父なる神様がごちゃごちゃになる現象は聖書自体の中にあります。イザヤ書でイエス様は「永遠の父」と呼ばれたり、使徒の働きのパウロの訣別説教では「神がご自分の血をもって買い取られた」というふうにゴチャゴチャなのです。
午後二時半、小学生低学年の子どもたちが5人会堂に遊びに来ました。今日は、五つのパンと二匹の魚と、イエス様がガリラヤ湖上を歩いたというお話をしました。「こわがらなければ、ペテロさん、水の上を歩けたんだねえ。」という感想がありました。
それからパズルをして、あと走り回ったり、かくれんぼをしたりしていました。