苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「売国」でなく「売民」・・・沖縄とシベリアで

 売国奴という厭なことばがある。この言葉を投げつけさえすれば、相手を社会的に抹殺できると思っている人々がいる。これは愛国心という近代に特殊な歴史現象を前提としていることは以前に書いた。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20110608/p1
 それはそうと、申命記17章でモーセはむしろ王に対して「売民」を禁じている。

王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。(申命記17:16)

 馬とは古代世界において兵器を意味している。兵器を獲るために、民をエジプトに売るなというのである。古代イスラエルは東方にメソポタミアという強大な文明圏があり、その軍事的圧迫は脅威であった。それに対抗するために、イスラエルの王はエジプトと軍事同盟を結ぶ傾向があった。「王よ、エジプトの軍事力の傘下にはいるために、民をエジプトに売る『売民奴』になるな」というのである。
 「売民」は遠く昔のイスラエル王だけが陥りがちな過ちではない。わが国の権力者は、沖縄とシベリアで、このことを行なった。
 日本国憲法が施行された直後の1947年9月中旬、昭和天皇が沖縄を米軍の基地として占領し続けることを希望するメッセージを米国国務省あてに送ったという事実が、筑波大学教授進藤榮一によって1970年代末に紹介されている。

 寺崎(注:宮内庁御用掛、寺崎英成)が述べるに天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球のほかの諸島を軍事占領し続けることを希望している。(中略)天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請がありしだい他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与をするという擬制の上になされるべきである。
(進藤榮一「分割された領土」『世界』1979年4月号 古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』p35より孫引き)

 昭和天皇が生涯ついに沖縄を訪問できなかったのは、もっともなことである。

 一方、シベリアでは先の戦争が終わったとき、日本兵60万人が抑留され、6万人余りが極寒の地の劣悪な労働環境における強制労働で死んだ。60万もの将兵がなぜおめおめと不可侵条約を破って侵攻して来たソ連に抑留されえたのか。保坂正康は、なんらかの目的で60万あまりの日本兵士をソ連に売り渡す密約が結ばれたのではないかと、至極もっともな推測をしている。交渉にあたったのは、つい先年他界した大本営作戦参謀瀬島龍三である。だが、シベリヤから帰国して伊藤忠社長となって財界の指導的立場を果たした瀬島龍三はその密約について、ついに生涯沈黙したまま他界してしまった。この件は、わが国政府にとって非常に不都合なことなので、官僚はその調査を固く拒んできたという。
 日本国憲法制定のプロセスを調べて年表を観察して来た結果、私は、その密約は、天皇制維持と関係しているのだという確信にちかいものを持つようになった。当初、極東委員会を構成する国々のうち、ソ連・オーストラリア・ニュージーランド天皇制廃止を強行に主張していた。ところが、途中、ソ連はにわかに態度を軟化させ、天皇制廃止を主張しなくなったと、幣原喜重郎が書いていた。瀬島が墓までその秘密を持っていってしまった以上、真相解明にはソ連側に残された密約の史料が表に出される必要がある。

 

<追記 10月10日>
「棄兵・棄民の責任を問う」という訴訟がなされていることを知った。下に掲げたのは大河原壽貴弁護士のことばである。やはり、想像したとおりのようである。

第二次世界大戦も末期の1945年、イタリア、ドイツが相次いで降伏し、日本もまた太平洋戦争で連合国に対して劣勢に立たされていました。ドイツ降伏後、ソ連が極東に軍隊を大移動させていたことから、日本は、一方では対ソ戦争を準備しつつ、他方では、日ソ中立条約が1946年4月まで有効であったことから、ソ連を仲介とする終戦工作を模索しはじめました。

終戦工作の中で、日本は、最低限「国体の護持」さえ維持できればよいとして、ソ連に対して「賠償として一部の労力を提供することには同意する」との提案をするまでに至りました。その結果、終戦後、関東軍総司令部からソ連側に対し、「次は軍人の処置であります…満州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたいと思います。」などという提案がなされることとなりました(「ワシレフスキー元帥に対する報告」)。日本は、「国体」すなわち天皇制維持のために、ソ連に対し、旧日本軍の軍人・軍属を労働力として提供したのです。これが日本による棄兵政策です。


www.daiichi.gr.jp


関東軍総司令部の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」という関東軍文書をこちらに見つけた。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/burogu16.html

 二つの関東軍文書

 ・・・
 その中で、斎藤の関心を最も強く引いた「関東軍文書」が二つあった。一つは関東軍総司令部の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」だ。もう一つは朝枝繁春大本営参謀の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」だった。
 
 前者は、満州に攻め込んだ極東ソ連軍の当時の最高司令官であるワシレフスキー元帥にあてた関東軍の陳情書だ。軍が作ったものなので、作成者の氏名や捺印はないが、元関東軍参謀(作戦班長)・大佐草地貞吾が数人の参謀と合議のうえまとめ、秦総参謀長、山田総司令官の決裁を受けて、ソ連側に提出した。93年7月5日から6日にかけて、この報告の内容が大々的に報道された直後、草地が自分が書いたものだと名乗り出た。文書の上欄には、「8月26日に受領」とロシア語で書き込みがある。そのあらましは、次の通り。

 一、3万人を超える入院患者は、冬季までに帰国させてほしい。長旅に耐えられない重病者は南満州にまとめてほしい。
 一、135万の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい。ただし老人、婦女子は内地か、元の居留地へ移動させて戴きたい。
 一、軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、その他は逐次内地に帰還させてほしい。帰還までに極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい。
 一、例えば撫順などの炭鉱で石炭を採掘するとか、満鉄、製鉄会社などで働かせてもらい、冬季の最大難問である石炭の取得にあたりたい。
 一、各地との通信が杜絶しているので速やかに、貴軍将校とともに要員を派遣して、今後の処理に関する資料収集について、ご配慮を得たい。
 一、本日は降伏者として厚かましい申し出をしたが、冬を控え速やかな措置が必要と考えたためで、他意はありません。日本人は貴国人と異なり、寒さに弱いので、特別の配慮をお願いしたい。


 一方、朝枝文書も草地文書と同様8月26日に、ソ連側に提出されており、「全般的ニ同意ナリ」とする秦総参謀長の「大本営参謀ノ報告ニ関スル所見」と一緒に発見された。かなり長文なので、必要事項だけ以下に抜粋する。

 1、一般方針
  内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於テハ在留邦人及武装解除後の軍人ハ「ソ」聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク「ソ」聯側ニ依頼スルヲ可トス
 2、方法
  1、患者及内地帰還希望者ヲ除ク外ハ速ヤカニ「ソ」聯ノ指名ニヨリ各々各自技能ニ応ズル定職ニ就カシム
  2、満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス
  3、以上満鮮ニ於ケル土着不可能ナル場合ニ於イテハ今入冬季前ニ少クモ先ヅ軍隊ハ400,000傷病兵30,000在留邦人300,000計730,000ヲ内地向輸送セサルヘカラス而シテ之カ輸送ハ船舶、鉄道ノ運用、輸送間ノ給養等厖大ナル仕事ニシテ一ツニ「ソ」側ヲシテ聯合側ニ依頼セザレバ不可能ナル問題ナリ

 ただし、ここには瀬島龍三の名は見えない。

*保坂正康『瀬島龍三参謀の昭和史』
http://www.amazon.co.jp/%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89%E2%80%95%E5%8F%82%E8%AC%80%E3%81%AE%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%8F%B2-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BF%9D%E9%98%AA-%E6%AD%A3%E5%BA%B7/dp/4167494035/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1425373607&sr=1-1&keywords=%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89%E5%8F%82%E8%AC%80%E3%81%AE%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%8F%B2#customerReviews