うちのわんこのロダが、今日は食べても飲んでもみんな戻して、今は静かに息をして、その時を待っているような感じです。
私たちが信州で暮らしていたとき、5歳くらいのロダをあずかることになりました。飼い主の人が、どうしても飼うことができない状況になったからです。
以来、11,12年、いっしょに暮らしてきました。どれほど私たちは慰められたことでしょう。フェイスブックのメッセンジャーのテレビ電話で遠くにいる子供たちにもロダを見せてやりました。
静かに息をしているロダを見て、出てくることばは「ありがとう」です。
ヨハネ福音書の神名としてのエゴーエイミ
ヨハネ福音書には、主イエスのエゴー・エイミ(英語でいえばI am)という表現が多い。中でも、「わたしは世の光である」、「わたしは羊飼いである」、「わたしはブドウの木である」における、世の光、羊飼い、ブドウの木といった補語を伴う用法でなく、補語のない絶対的な用法としてのエゴー・エイミという表現が興味深い。新改訳聖書2017はこのエゴーエイミを二重括弧に入れて明示した。
8章24節「それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」
8章28,29節「そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」
8章57,58節「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
13章19節「1事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」
ゲツセマネの園で敵がイエスを逮捕しにきたときにも、イエスはエゴーエイミと答えている。新改訳2017では文脈から「わたしがそれだ」と訳されているのであるが、このことばに対して、敵が倒れたとあるところを見ると、福音書記者はこの主のことばを特別な主の名の宣告として書いていると思われる。
18章5-8節「彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」
この絶対的用法としてのエゴー・エイミは、七十人訳旧約聖書の出エジプト記3章14節の燃える柴の木の箇所で、主なる神が自己紹介をしたときの名なのである。
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
『風と共に去りぬ』に挫折
先週、娘が連休で帰ってきたので、夜、なにかを観ようということになり、以前、1円プラス送料で手に入れていたDVD『風と共に去りぬ』を見ることになりました。私は子どものころからあの有名なポスターを何度も目にしましたけれども、見たことがなかったのです。今回、その黒人の描き方が差別的であるということが、米国で問題になっているということで話題になりました。
かつてアカデミー賞を総ざらいしたような名作の誉れ高い映画なのですが、テンポがゆっくりしていて、登場人物にあまり共感できるところもなく、とにかく長くて長くて4時間もあり、結局、100分を残してギブアップしてしまいました。
南北戦争を描いたこの作品は、マーガレット・ミッチェルが北のストウ夫人が書いた『アンクルトムの小屋』に対する南部諸州の答えとして書いた原作に基づくものだそうです。南部諸州は奴隷の労働力によって綿花栽培をして巨億の富を得た人々がヨーロッパ貴族風の生活をしており主人公は気の強いお姫様のような生活をしていました。しかし、北軍はそうした南部の町々を徹底的に破壊し尽くしていきました。書名は、北軍という嵐によって、南部の繁栄は去ってしまったという意味なのでしょう。かつて薩長土肥から成る維新軍が、旧幕府軍・佐幕諸藩を残忍かつ徹底的に殲滅していき、その爪痕が今日に至るまで東北地方の人々の心に残っているというのと似ています。
残りの100分は、かつて奴隷労働を背景として作り上げた貴族風の生活からどん底に落とされた南部の人々がいかに復興していったかが描かれているのだと友人に教わりましたが、未見です。
5ミリでも
椅子型の階段昇降機というのをご存じでしょうか。あれは、最後の最後まできちんと到達させて、充電のための接点がくっついたことを確認してから席から下りないと、椅子にくっついているバッテリーが上がってしまいます。
今日、二階に印刷機があるものですから、紙が5束入った箱をいくつか上げようとしたら、昇降機がピーピー鳴って動きません。よく見ると、接点まで5ミリメートル離れているんです。それでバッテリーがあがってしまったのです。電話をしたら、サービスマンに来てもらうと、一回それだけで3万円と言われました。あちらも5ミリのために3万円もらうのは不本意なようすでした。
そこで、思いついて、手元にあったコードのオーディオケーブルのゴムをはがして、手を突っ込んで接点をなんとかくっつけました。パイロットランプが点灯しました。これで充電するはずです。たった5ミリでも離れていてはあかんのでした。
ふと、長血の女が「主のお衣に触れたらきっと治る」と信じて、触れたとたんに体に異変が起こって治ったという福音書の記事を思い出しました。むかし、T 牧師をお迎えしてお話していただいたとき、檀上から先生がこの出来事を電気のコンセントにプラグを差し込むことに譬えて、「1センチ離れていてもだめでした。5ミリでもだめでした。では、1ミリならどうでしょう?」と言ったら、Y姉が「1ミリならつながるんじゃないですか」と手を上げたら、先生が困っていらっしゃいました。先生は「信じたい」というのと、「信じます」という決断は違うことを話したかったんでしょうね。
ローマ書8章28節について(3) ともに働く
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
「すべてのことがともに働いて益となる」の「ともに働く」と訳されることばは、synergeoという動詞である。syn は「ともに」という意味で、ergeoは「働く」という意味である。神学用語でSynergism ということばがあり神人協働説と訳される。アウグスティヌスやルターやカルヴァンの恩寵救済主義に対して、ローマ教会のトミズムや英国国教会などが神人協働説とされる。
「すべてのことがともに働く」というときの「すべて」とは、人生に起こりくる、出会いや別れ、喜びや悲しみ、成功や失敗などさまざまなことをさす。それらが見事に組み合わせられて、神を愛する人たちの「益」つまり、義認・聖化・栄化のために、働くということである。神の摂理の御手の見事さである。人生に起こりくるさまざまな出来事、とくに苦難は意味不明だけれど、主のもとに帰った日に、ああ、そういう意図だったのですか、とわかるのかもしれない。
だが、ついこの頃聞いたsynergeoのもう一つの解釈としてライトが紹介しているのは、「すべてのことが神に召された人と共に働く」というものである。神のご摂理の中に、神を愛する人も用いられていくのだというのである。義認については神と人との協働ということは受け入れがたいが、聖化は信徒の自覚的な神への応答を含みつつ聖霊が進めるわざであることを思えば、そうした解釈もありえよう。彼岸主義的な福音理解を嫌い、信徒の自覚的な神の王国建設への参与を強調するライトらしい解釈である。