馬から落馬したような、新改訳2017の一節。
詩篇51:19
焼き尽くされる全焼のささげ物
オーラーの訳語を「全焼のささげ物」とさだめたので、馬から落馬したような翻訳にせざるをえなかったのであろうが、さすがに変である。「焼き尽くされる」と訳されたのはカーリール(全体の、まったき)である。「まったき全焼のささげ物」でも同じ問題は残るが、少しはましかもしれない。
今日は待降節第四主日、クリスマス主日礼拝でしたが、実は、昨日の午前にいつもともに礼拝をささげているご高齢のK姉が天に召されたので、本日の午後の時間はクリスマス祝会でなく、天国に召された姉妹をしのぶ会としました。高齢者が多く、前夜式をしても集うことがむずかしいからです。急なことでしたが、ご親戚も集ってくださり、天に召された姉妹の信じたイエス様の福音に真剣な表情で耳を傾けてくださりました。家内が、キリストの福音はK姉からのご親戚へのプレゼントなのねと話していました。
K姉は結婚して二人の娘さんが与えられ幸せな家庭をご夫君とともに築き始めた矢先、娘さんたちがわずか五歳のときに、ご夫君が逝去されて、以来、女手ひとつでお二人の娘さんを立派に育て上げられた方です。そのご苦労は並大抵のことではなかったろうと思います。娘さんたちはやがて教会に通うようになり、クリスチャンになりましたが、K姉はなかなか教会には来られませんでした。しかし、娘さんの一人が闘病の末に天に召されて行かれたとき、その天国への希望のたしかさを目の当たりにされて、ご自分もイエス様を受け入れられたのでした。以来、忠実なクリスチャンとして歩んで来られました。
姉妹の愛唱賛美は、聖歌687番「まもなく彼方の」です。
偉い神学者の中には、イエス様を信じたら、罪ゆるされて天国へ行けるというような彼岸的な福音理解はよろしくない、もっとこの世にあって神の栄光をあらわすことをキリスト者は志すべきであるとおっしゃる方がいます。言わんとする御高説はわかるのですが、ご高齢の兄弟姉妹とともに歩んでいる現場の牧師としては、主イエスにある天国の福音の約束もまた大切なものです。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。(2コリント4:16-5:4)
まもなくかなたの We Shall Gather At the River Hiroshima Glory Church
最近、「神様は生きていて、祈りに応えてくださった!」という喜ばしい経験を聞きました。そのポイントとなった先日の説教の部分をお分かちします。
山を動かす信仰の祈りのはずなのに答えられない。それを妨げているものは何か?そして、それを打ち破る祈りとはなんなのか?
人のためのある課題が、祈っても私の祈りは答えられないなあ・・・と実はがっかりしている方がいるのではないかと思います。たいせつなことを書きます。
22,イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。23,まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。24,ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
25また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」(マルコ11:22-25)
主イエスはここで、答えていただける祈りの秘訣とその妨げとなることについて教えています。答えられる祈りの秘訣は、神を信じること、すでに得たと信じることです。
しかし、この答えられる祈りを妨げるものがあります。25節にあるように、それは「恨み」です。恨みを抱えたままでは、どんな祈りも神にこたえていただくことはできません。ですが、自覚ないままに、実は恨みを抱えたままでの祈りというのをむだにし続けていることという場合が、結構あるのではないかと思います。
「Aさんが、あのことを悔い改めるように導いてください。」「Bさんが、あんな暴言を吐かないように作り替えてください。」「Cさんがああいう無茶なお酒の飲み方をしないようにたすけてください。」「D牧師がもっと伝道熱心になれますように」というような祈りの場合、祈っている当人は、「私はあの人が健康になり、対人関係でもトラブらないようになり、幸福になれるように、神のお役に立てるようにと願って、そう祈っているんだ。」と思っていて、恨みや怒りを抱いているとは思っていないからです。けれども、私たちはえてして「あの人が~なりますように」と祈るときには、「あの人」に対する怒りや不満や恨みを抱えている場合が多いのではないでしょうか。そして、そういうものを抱えていると、山は決して海に入りません。
では、どうすればよいのでしょう。パウロは迫害者のために次のように祈りなさいと命じています。
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)
迫害者がいると、多くの人が「あの人が私を迫害しないように導いてください」とか、あまりにひどい状況だともしかすると「あの迫害者を滅ぼしてください」と祈りたくなるでしょう。けれども、そういう祈りには恨みや怒りがともなっています。恨みがともなっていると答えられません。(旧約聖書詩篇にはその種の叫びがあることは知っていますけれど、それは答えられたか?)
Aさん、Bさん、Cさん、D牧師のための祈りは、この迫害者のための祝福の祈りを応用すればどうなるでしょう。「Aさんを祝福してください」「Bさんを祝福してください」「Cさんを祝福してください」「D牧師を祝福してください」と祈ればよいのです。自分の祈りの課題となっている、その人に神が祝福を祈るのです。「あの人を、あーしてくれ、こーしてくれ」と神様に注文するのではなく、その人を神の御手におゆだねして、「あの人を祝福してください!」と祈るのです。山が動いて海に入ります。