苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストの再臨について

 ある方から、聖書の言うキリストの再臨について、見解を求められたので、少しばかりメモしておきたい。

1.キリストの再臨と最後の審判についての信仰は、再臨の近づいた時代には衰えて、あざけられる。またひとたび行なわれた世界の大洪水による審判についても忘れられる。現代はまさに、そういう時代ではないか。

3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。(2ペテロ3:3−7)


2.キリストは空中に再臨されると、世界中の信徒をご自分のもとに引き上げられる(その時期については「大艱難」の前だとか後だとか議論がある)。

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16,17)

 

13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコ13:26,27)

 なお、再臨にともなう「雲」はシェキーナの雲であると思われる。モーセが神の幕屋を仕上げたとき、至聖所に満ちた雲。ソロモンが神殿を仕上げたとき、至聖所に満ちた栄光の雲である。主の臨在をあらわす。
 「科学的」な現代人は「空中に引き上げられて大丈夫か?」「酸欠と寒さで死んでしまう」などと議論するかもしれない。だが心配はいらない。なぜなら、そのとき私たちはみな「変えられる」からである。

「15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(1コリント15:51,52)

3.キリストが空中に再臨されるという約束を信じていなければ、偽キリストに欺かれる。

13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(マルコ13:5,6)

13:21 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。13:22 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。(マルコ13:21,22)

 「空中」ということばの意味について厳密な議論はむずかしい。今、私たちが生きている同じ三次元の世界における飛行機が飛び交っているような「空中」であるとは考えにくい。本質的なことは、そこは再臨された主イエスとともにいる場であり、亡びてしまう世から分けられた場であるということであろう。



4.キリストの再臨を迎えるにふさわしい生き方

 ひとつは、「再臨などない」とか「主の再臨はずっと先のことだろう」とたかを括らず、「私がこの世に生きているうちにも主の再臨があるかもしれない」と信じて、この世の欲に深入りせず、霊的に目を覚まし緊張感をもって生きることである。

4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。(1テサロニケ4:15)

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。(1コリント15:51)

 だが、それは再臨の前兆や時期やその様態について聖書が明白に教える以上に詮索したり、落ち着きを失って世界に対して無責任になることを意味しない。主は私たちを世の光、地の塩として派遣された。肝心なことは、キリストが命じられたように、日々悔改めつつ神を愛し、隣人を自分自身のように愛する落ち着いた生活をすることである。そのような者をこそ、主は喜んで御許にお集めくださるのだから。空中に引き上げられるという教えに先立って、パウロは次のように言った。

4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。 4:10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。 4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。(1テサロニケ4:9−11)


 また、主イエスは再臨についての預言の結びに次のように言われた。

13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。 13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。 13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。
13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」(マルコ13:33−37)