苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

前兆

マタイ24章1節から31節


序 預言の二重性
「ああ、エルサレムエルサレム」とイエス様は、その滅亡を思って嘆かれたのち、(レプタ二つのやもめの記事を省略して)弟子たちを連れて宮を出てゆかれます。そうすると、弟子たちはこのヘロデ大王が築いた宮の石の立派さ美しさに見とれています。

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

 すると主エスはニベもなくおっしゃいました。

24:2「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 そこで弟子たちはイエス様にエルサレム神殿の崩壊はいつなのか?その前兆はと質問しました。

24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 イエス様の預言は、旧約時代の預言でもしばしばあるように二重の意味を帯びています。預言の二重性というのは、遠くの山の稜線と手前の山の稜線が重なって見えるというイメージで考えるとよいかもしれません。手前に見える成就は、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム崩壊であり、遠くに見える預言の成就は世の終わりにおける主の再臨のことです。
手前の預言としての特徴は「山に逃げなさい」に現れています。実際、イエス様の教えにしたがってエルサレムのクリスチャンたちは、第一次ユダヤ戦争(66年〜)が本格化しローマ帝国軍がエルサレムを包囲する前に、ペラというところに集団疎開していて、助かったという歴史的事実があります 。
他方、世の終わりとはなにか?神様はこの世界を造りその歴史を始められましたが、その歴史に決着をつけ最後の審判を行い、新しい天地を来たらせるため主イエスがふたたび来られることになっています。これを主の再臨と言います。イエス様のお話の中で、人の子キリストが天の雲に乗って再臨なさり、神の民が御使いたちによって集められると言われました。この出来事はこれから起こることです。エルサレム教会のクリスチャンたちがイエス様の警告にしたがっていのちを助かったように、私たちは再臨の兆しを見たならば賢明にふるまいたいと思います。
 
1 一般的予兆

 まず再臨・最後の審判が訪れる一般的予兆をイエス様は話されました。

24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 一般的前兆のひとつは「私こそキリストだ」という人々がおおぜい現れることです。偽キリスト教、偽キリストは、今もいろいろ現れています。先年、わたしは再臨のキリストだと言っていた統一教会の教祖文鮮明が死にました。オウム真理教の教祖も自分はキリストだといっていましたし、幸福の科学の教祖もあつかましくも自分はキリストであり仏陀の再来であるといっています。自称キリストの出現は日本だけの現象でなく、世界中で起きていることです。石ころのイミテーションをつくる人はいませんが、ダイヤモンドのイミテーションを作る人はたくさんいるのです。
 にせキリストの見分け方は簡単です。23−27節に書かれています。

24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。 24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。 24:25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。 24:26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。

 再臨のキリストが、国会議事堂で演説するとか、ニューヨーク国連本部で記者会見があるか、臼田のコスモホールに来るとか、サハラ砂漠だとか、鳥取砂丘に来たとか、そういう類のニュースや宣伝があったなら、それらはみな偽者です。キリストは最初に来られたときはお忍びでベツレヘムの馬屋に来られましたが、二度目は「いなずまが東から出て、西にひらめくように」つまり、世界中の誰の目にも同時にわかるようにおおっぴらに来られるからです。

 一般的前兆のふたつめは、「戦争や戦争のうわさ」です。世界中で民族紛争、戦争が多発するというのです。
 一般的前兆の三つ目は、「ききんや地震」といった天変地異が世界中で頻発することです。今、実際に日本列島だけでなく、世界中が地震で揺れ動いていることはみなさんもご存知のとおりです。
 以上、三つの一般的前兆、偽キリスト、戦争・民族紛争の多発、地震とききんは、「産みの苦しみの初め」だとイエス様はおっしゃいました。お母さんが陣痛の後に、赤ちゃんが生まれるというこの上ない喜びを経験するように、終わりの時代には大変な苦難がありますが、その苦難の後には最終的な御国の完成という喜びが待っているのです。また、陣痛が寄せては返す波のようにやってくるように、世の終わりまで、これらの前兆に類することは繰り返し起こってくるのです。ですから、それぞれの時代に、「いよいよ主イエスが再臨されるのかな」という意識をもってクリスチャンたちは生きてきました。神様はそのように意図して歴史を摂理なさっているのだと思います。使徒パウロは自分のこの世にあるうちに主が来られることを信じて伝道に励みました。同盟教団の霊的先祖であるフレデリック・フランソンは「自分の目が青いうちに主は来られる」と信じて世界宣教をしました。私たちは自分の目が黒いうちに主が再臨なさるということを意識してクリスチャン人生を送ることは大事なことです。

2 教会にかかわる前兆

 つぎに教会にかかわる前兆についてです。その一つ目は、クリスチャンは迫害されるということです。イエス様を信じているということのゆえに、弾圧されるのです。こうしたことは、ローマ帝国の時代に起こりました。キリスト教徒がふえていったとき、当初、ローマ当局は無視しいて、迫害をするのはユダヤ教当局でした。しかし、やがてキリスト教徒の数があなどれないほどに増えてくるにつれて、またキリスト教徒がローマ皇帝を神として礼拝しないということがわかってくると厳しい弾圧の対象とされるようになったのでした。ローマはかつては元老院が治める共和制をとっていたのですが、東のほうに版図をひろげていくとともにオリエント世界にあった国王崇拝の風習を取り入れるようになってゆき、オクタウィアヌスの時代に帝政に移行し、やがて皇帝を「神なる皇帝」と呼ばれるようになるのです。キリスト教徒は当然これを拒否しますので迫害の対象となりました。

24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

こうした厳しい迫害の下、心定まらない多くの人々はつまずき背教することになります。

24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

また、こうした弾圧を逃れるために、皇帝を礼拝することは社会的儀礼であて、宗教とは違うのだなどと教える偽預言者が現れて多くの人を惑わします。

24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

その時代は不法のはびこる時代で、人々の愛は冷えてしまい、親子が憎みあい、夫婦が憎みあうような状況になってしまいます。

24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

まるでノアの時代のようですね。ノアの時代にも不法がはびこって、いったい何が正しいことか、何が悪いことかもわからなくなり、正しい道を主張すると笑いものになるような時代でした。この世と調子を合わせているほうが楽なので、そうする人はこの世といっしょに滅びることになります。
 しかし、そういう時代のなかで、神の御心、神の正義、神の愛に生きていく者たちは、ついに救われることになります。

24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。


3 最後の前兆

(1)福音がすべての民族に
こういう困難な時代のなかで、私たちはキリストの福音を宣べ伝え続けて行かねばなりません。そうして、世界中のすべての民族にあかしされたならば、いよいよ主の再臨が近いのです。 「国民」と訳されていることばは、むしろ「民族」と訳したほうがよいと思います。

24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

 偽キリストの出現、戦争、地震、教会弾圧、背教、不道徳の蔓延といったしるしは、歴史を振り返れば、どの時代にもある程度現れてきた前兆です。先に申し上げたように、寄せては返す波のようなものです。けれども、世界の全ての国民に福音があかしされるというしるしは、繰り返す種類のものではありません。ペンテコステ以来、福音は世界中にひろがり、長らく停滞した時期もありましたが、十九世紀以降、爆発的に福音は世界に拡がって、その時代に日本にも届き、ついに今世紀にはすべての民族に福音が届く日が着々と近づいています。

(2)荒らす憎むべき者の出現
 いよいよ主の再臨が近づいたときの最後のしるしは、「荒らす憎むべき者」の出現です。世界中で地震が頻発し、飢饉や戦争が起こり、不況、不安のなかで道徳的混乱に満ちてしまったその時代、その困難な時代に、彗星のように現れて、解決をもたらすかと期待させるとてつもない人物が出現するのです。世界は彼に期待し、彼を崇拝するでしょう。
 しかし、彼はしばらくするとその「荒らす憎むべき者」という正体を現わします。

  24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
 「荒らす憎むべき者」というのは旧約聖書ダニエル書9章27節に出てくる者で、新約聖書ではテサロニケの手紙第二の第二章に出てくる「不法の人、滅びの子」と呼ばれる人物です。
2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(2テサロニケ2:3,4)

 彼は自分以外のものが神と呼ばれること礼拝されることが我慢ならないという傲慢のきわみにある人物で、自分自身が神であると宣言するのです。当然のことながら、まことの神のみを礼拝する忠実なキリスト者は弾圧を受けることになります。

結論 主の再臨への備え

 「わたしこそ神である。世界の人々よ、わたしをあがめよ。」という荒らす憎むべき者、不法の人が出現し、世界中が惑わされるなら、それはキリスト者にとってはたいへんな苦難の期間ですが、間もなく天にしるしが現れて人の子イエス・キリストが来てくださり、彼を滅ぼしてくださいます。「人の子」というのはイエス様が自分を呼ぶ呼び方です。

  24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

テサロニケ第二2章の並行記事は次の通り。

2:8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
そうして、再臨のキリストは世界中のキリストを心から慕い求める人々をご自分のもとに集めてくださいます。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

最初のキリストがこの世に来られたときには、キリストはお忍びで来られましたから、東の博士たちはキリストを探しに来なければなりませんでしたが、再臨においては違います。私たちがキリストを探さなくても、キリストが私たちを探して引き寄せてくださるのです。主が私たちを集めてくださいます。ですから、私たちは再臨のイエス様はどこにいらっしゃるのだろうなどと心配して心騒がせる必要はまったくありません。
では、主の再臨を迎えるために私たちがなすべき備えとはなんでしょうか?
 私たちは、地震や飢饉や戦争と戦争の噂や不道徳や信仰に対する迫害やさまざまな苦難のなかに置かれたとしても、その置かれた持ち場立場にあって、落ち着いて、「今、私が、この場にあって、あなたを愛し、隣人を愛することとは何をすることでしょうか?」と神様に祈りながら、それぞれ示されたことにしたがって、主に忠実に信仰生活をすることこそ、主の再臨を迎えるための備えです。
 地震や飢饉で困っている人がいたならば、出かけていって助けたり、自分の財布を開いて援助する。ネパールも東北も、そうです。
戦争の噂がある今の日本では、平和をつくるための意思表示をし、祈ることです。現在、国会では「平和安全法制」について論じられています。その中身は「自衛隊が世界中のどこででも、米軍の戦争に参戦することができるための法制」です。
愛が冷えてしまった人間関係のなかにキリストの愛の福音をもたらす。不法のはびこる時代に、神の正義のみこころを勇気を出して発言する。
「いつとかどんなとき」をいろいろ詮索することが、再臨の備えではありません。置かれた持ち場立場で、神を愛し隣人を愛する生活をすることこそが、私たちは主の再臨への備えです。
ルターは次のように言ったそうです。「明日主が来られるとしても、わたしは今日りんごの苗を植えよう。」