苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

国のあり方について(おまけ)・・・二つの自由主義

 あるアンケート結果によると、米国人がもっとも大事にしていることは宗教であり、ヨーロッパ人がもっとも大事にしていることは自由なのだそうである。自由というのは近代ヨーロッパの基本的な理念なのである。近代市民革命は、自由を目指して行われた。それは専制君主からの自由であり、国教主義からの自由である。
 ヨーロッパで自由を実現するために考案された政治体制はふたつある。一つは、国家の国民に対する統制を最小限をおさえることによって、国民を自由にするという放任自由主義すなわち最小限国家論である。もう一つは、国民が直接的に主権を行使する国民自治政府をつくることによって、自由を実現するという国家本位的自由主義である。


1.放任自由主義・・・最小限国家論

 最小限国家論というのは、英国名誉革命の理論的指導者であったジョン・ロックの主張する自由主義であって、国家の個人への束縛を最小限にとどめることによって、国民の自由を実現しようとするものである。英国ではマグナカルタ以来、憲法によって君主の権限を極力制限し、国民に対する束縛を最小限度にとどめるという立憲君主制を取ってきたが、それが名誉革命で完成した。「君臨すれども統治せず」という立場である。国民の代表による政府の働きに関しても、国民の経済活動・社会活動・思想活動に対する規制を最小限にとどめることで、国民の自由を維持するわけである。
 だが、この最小限国家論の立場には弱点がある。それは、国家が国民の経済活動を規制しなければ、国民の間の弱肉強食社会が生じるということである。なぜなら国民の一人一人は、生まれながら能力にも持ち物にも多様性があり、かつ、人間はみな利己的で傲慢という罪をもつからである。だから、富者はますます富み、貧者はますます貧しくなる。国家が国民の活動を無制限に放置すれば、金持ちが貧乏人から搾り取る不平等な社会が生じることは必然である。
 事実、産業革命時代に自由主義市場の資本主義体制の社会において、甚だしい社会的不平等が生じた。教科書で、腰にトロッコをつながれた子どもが狭い坑道をはいずっている絵を見たことがあるだろう。小泉‐竹中改革が新自由主義経済を日本に導入し、さまざまなことを「規制緩和」つまり無法化した結果、それ以前世界でもっとも平等な国だと言われた日本は、わずか十数年で格差社会に変貌してしまったのを見ても、よくわかる。


2.国家本位的自由主義・・・最大限国家論

 政府が国民を放任すれば、その社会は金持ちが貧乏人から自由を奪って富を搾り取る不平等社会となる。そこで、国民の自由を実現するために提案されたのは、J.J.ルソーに始まりマルクスへと展開する国家本位的自由主義である。それは、国家の仕組みを、国民が直接統治する機構に改造することにより、国家権力を通して国民の自由を保証しようとする。自由とはすなわち国民による自治にほかならない。この場合、当然国家の権限は極めて大きなものとなる。国家は、資本家たちを統制する最大の強者でなければならないからである。
 だが国家本位的自由主義も、思ったようにそううまくは行かない。
 「国民による自治」とはいっても、人口が1000人ほどのポリス国家でない以上、国民全員が政治に直接参加することはできないから、実際には、国民の一部が代表者として統治に当たることになる。しかも、国家本位主義体制では、政府はきわめて強力な権限を持っているから、結局、国民の代表だとされるごく一部のエリートに強力な権限が集中することになってしまう。官僚支配国家である。
 そして、聖書的観点からすれば、このエリートたちもまた利己的で傲慢という罪をもつ人間であることは避けられない。だから、彼らは自分に都合よく「国民(人民)」とは何であるかを規定して、「国民」であるならば、これを信じ、このように考え、このように行動しなければならない、そのようにしない者は「非国民」であると定める。それは、最小限国家論における資本家の労働者に対する抑圧よりもはるかに厳しい全体主義思想統制になる。なぜなら、資本家は直接的に法律と警察と刑務所を持っていないが、政府は法律と警察と刑務所を持っているからである。 
 このことは世界中の共産主義国の歴史が証明してしまった。東西ドイツの統一に向かう中で、東ドイツの状況が次のように報告されている。

「東独では久しい間、『人民』という言葉は内容を失った偽りの概念になってしまっていた。たとえば、『人民議会』といいますが、これはいくつかの翼賛政党に名目上議席を与えて体裁は整えているものの、事実上はSEDの一党独裁で、人民の意志はまったく反映していませんでした。一事が万事で、到る所に『人民』という言葉が使われましたが、その実態は党の権力者たちの恣意的な決定に過ぎなかったのです。ですから、『今われわれが長い間の沈黙を破って声を挙げている、これこそが人民の声なのだ、党の権力者たちが言う人民は本当の人民ではない、われわれこそが人民である』というわけです。」この人民のエネルギーが、独裁体制を倒したのです。・・・」(村上伸、佐々木悟史『激動のドイツと教会』18ページ)

 この国家本位的自由主義者は国民の自治政府を実現するまでは、資本家からの労働者の解放を指向して「自由」を叫ぶ理想主義者・革命家である。だが、ひとたび「労働者の自治政府」が樹立されると、国家本位的自由主義国(共産主義国)における国民の自由とは国家イデオロギーへの隷従を意味している。国家本位的自由主義国家においては、政府を批判する者は「非国民」として非難され、強制学習収容所などで思想改造される。


3.聖書はなんと教えるか

 聖書は国家や政治を理想化し、それほど大きな期待をするなと教えているように思われる。なぜならば、第一に、人間は堕落して利己的で傲慢だからである。右翼であれ左翼であれ罪ある人間にさまざまな権限を集中して持たせると結局、独裁に陥る。右に任せればヒトラーのナチズム、左に任せればスターリニズムである。第二に、そのとき悪魔が権力者に権威を与える(黙示録13章2節)。悪魔化した権力者は、自ら崇拝されることを求めて、国民を思想統制する習性がある(黙示録13章11,12節)。
 本来、神が国家に与えた職務は、警察による悪の抑制と、徴税による富の再分配である(ローマ書13章1−7節)。つまり、為政者には世俗的職務を託されているにすぎない。
 国家が国民を、国家に都合よく思想統制・思想教育しようとすることは、偽預言者的で悪魔的な振る舞いであると黙示録13章は警鐘を鳴らしている。国家に都合のよい教育とは、フランス革命以来、他国民を蔑み自国民を溺愛する「愛国心教育」である。その意味で、上述ふたつの体制のうちいずれが聖書的国家観に近いかといえば、ロック流の最小限国家論の方である。
 ただし、経済活動についていえば、旧約聖書におけるヨベルの年の定め(レビ記25:8−17)を見れば、まったくの制限なしの自由主義ではなく一定の制限を付けた自由主義である。ヨベルの年というのは、農地を耕し経済活動をしてよいけれども、50年ごとに先祖の土地の境界線に戻しなさいという定めであった。そうしないと、社会は資本家(金持ち)が無産階級(貧乏人)から搾り取る不平等な社会となってしまうからである。実際、イギリスでは土地の所有権に時間的制限を設けているというのを読んだことがある。
 このように、聖書はたいへん冷静で自由の夢にも平等の夢にも酔っ払わない。人間は利己的で傲慢という罪性をかかえているという現実をわきまえて、一部の人間に権力が集中せず、分立抑制しあう工夫が必要である。大きすぎる政府にも、小さすぎる政府にもそれぞれメリット・ディメリットがあることをわきまえて、バランスをとることが必要である。