(2)「憲法草案要綱」起草者、鈴木安蔵の思想的源泉・・・植木枝盛
鈴木安蔵のおもな思想的源泉は、植木枝盛の「東洋大日本国憲案」をはじめ、明治時代、弾圧下に自由民権運動のなかで起草された数々の民間憲法草案であった。明治時代に国権主義と民権主義のたたかいがあったが、結局、国権主義が勝利を収めて、外見立憲君主制(実質専制君主制)の帝国憲法ができた。だが、敗戦後、ひとたび葬られていた民権主義が民主立憲君主制の日本国憲法というかたちで復活してきたというわけである。日本国憲法の三大原則のうち二つ<主権在民と基本的人権>は、日本製なのである。
家永三郎は次のように指摘している。「日本国憲法は、植木枝盛草案ときわめてよく似ている。主権在民、基本的人権の保障、地方自治の確立、みなしかり。その平和主義は枝盛の『無上政法論』と精神を同じくする。男女同権、家の廃止を確信とする新民法は、枝盛の家制度改革論と寸分たがわない。枝盛の政治上、社会上の改革論は、日本国憲法体制の青写真であり、半世紀前に国民が臨みながら実現しえなかった期待が、敗戦という不幸なまわり道をたどって実現したと見るのは、決して強弁ではない。・・・(中略)・・・日本国憲法について言うならば、その原案となったいわゆるGHQ草案の作成に当り、占領軍は日本人有志の憲法研究会の草案を参考としてその内容を取り入れているのであり、かつ、その憲法研究会草案は、戦前におけるほとんど唯一人の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵が植木枝盛草案その他を参考にして起草したものなのであるから、日本国憲法と植木枝盛草案との酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有するのである。」(植木枝盛『植木枝盛選集』(家永三郎編 岩波文庫)解説pp321,322)
植木枝盛「東洋大日本国国憲案」(植木同上書pp85−111)から抜粋しておく。
●基本的人権の保障に関する条項
第五条 日本国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス
第六条 日本国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スヲ得ス
第四十条 日本ノ政治社会ニアル者之ヲ日本国人民トナス
第四十一条 日本ノ人民ハ自ラ好ンテ之ヲ脱スルカ及自ラ諾スルニ非サレハ日本人タルコトヲ削カル丶コトナシ
第四十二条 日本ノ人民ハ法律上ニ於テ平等トナス
第四十三条 日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ自由権利ヲ犯サレサルヘシ
第四十四条 日本ノ人民ハ生命ヲ全フシ四肢ヲ全フシ形体ヲ全フシ健康ヲ保チ面目ヲ保チ地上ノ物件ヲ使用スルノ権ヲ有ス (レ脱)
第四十五条 日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ
第四十六条 日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ何等ノ刑罰ヲモ科セラレサルヘシ又タ法律ノ外ニ於テ麹治セラレ逮捕セラレ拘留セラレ禁錮セラレ喚問セラル丶コトナシ
第四十七条 日本人民ハ一罪ノ為メニ身体汚辱ノ刑ヲ再ヒセラル丶コトナシ
第四十八条 日本人民ハ拷問ヲ加ヘラル丶コトナシ
第四十九条 日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス
第五十条 日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ
第五十一条 日本人民ハ言語ヲ述フルノ自由権ヲ有ス
第五十二条 日本人民ハ議論ヲ演フルノ自由権ヲ有ス
第五十三条 日本人民ハ言語ヲ筆記シ板行シテ之ヲ世ニ公ケニスルノ権ヲ有ス
第五十四条 日本人民ハ自由ニ集会スルノ権ヲ有ス
第五十五条 日本人民ハ自由ニ結社スルノ権ヲ有ス
第五十六条 日本人民ハ自由ニ歩行スルノ権ヲ有ス
第五十七条 日本人民ハ住居ヲ犯サレサルノ権ヲ有ス
第五十八条 日本人民ハ何クニ住居スルモ自由トス又タ何クニ旅行スルモ自由トス
第五十九条 日本人民ハ何等ノ教授ヲナシ何等ノ学ヲナスモ自由トス
第六十条 日本人民ハ如何ナル産業ヲ営ムモ自由トス
第六十一条 日本人民ハ法律ノ正序ニ拠ラスシテ室内ヲ探検セラレ器物ヲ開視セラル丶コトナシ
第六十二条 日本人民ハ信書ノ秘密ヲ犯サレザルベシ
第六十三条 日本人民ハ日本国ヲ辞スルコト自由トス
第六十四条 日本人民ハ凡ソ無法ニ抵抗スルコトヲ得
第六十五条 日本人民ハ諸財産ヲ自由ニスルノ権アリ
第六十六条 日本人民ハ何等ノ罪アリト雖モ其私有ヲ没収セラル丶コトナシ
第六十七条 日本人民ハ正当ノ報償ナクシテ所有ヲ公用トセラルコトナシ
第六十八条 日本人民ハ其名ヲ以テ政府ニ上書スルコトヲ得各其身ノタメニ請願オナスノ権ア
リ其公立会社ニ於テハ会社ノ名ヲ以テ其書ヲ呈スルコトヲ得
第六十九条 日本人民ハ諸政官ニ任セラル丶ノ権アリ
●革命権
第七十条 政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得
第七十一条 政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得
政府威力ヲ以テ壇恣暴逆ヲ逞フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得
第七十二条 政府恣ニ国憲ニ背キ擅ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ日本国
民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得
第七十三条 日本人民ハ兵士ノ宿泊ヲ拒絶スルヲ得
第七十四条 日本人民ハ法庭ニ喚問セラル丶時ニ当リ詞訴ノ起ル原由ヲ聴クヲ得
己レヲ訴フル本人ト対決スルヲ得己レヲ助クル証拠人及表白スルノ人ヲ得ルノ権利アリ
● 皇帝(天皇)について・・・立憲君主制における無答責の原則
第一章 皇帝ノ特権
第七十五条 皇帝ハ国政ノ為ニ責ニ任セス
第七十六条 皇帝ハ刑ヲ加ヘラル丶コトナシ
第七十七条 皇帝ハ身体ニ属スル賦税ヲ免カル
植木枝盛の憲法案http://homepage2.nifty.com/kumando/si/si010515.html
これも・・→http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html
●植木枝盛「男女の同権」
「男子にして権利あれば婦女もまた権利あるべし。婦女にして権利なしとすれば、男子もまた権利なしと謂わざるべからず。何となれば男女の二者は特に分かってこれを称すればこそ爾かく男女と別るれども、そもそも人類たるの大段落に至ってはかつて少しも相異なることなければなり。同じくこれ人なり、しかして甲には権利ありとなし、乙には権利あらずとなす、これ自ら撃切するものと謂わざるべけんや。むしろ上帝人を造るの初めにおいて甲の人の額には『汝権利あるべし』との七字を印し乙の人の額には『汝権利あらざるべし』との九字を印するなどの約束あらんには、世間あるいはこれを証拠として甲には権利を有せしめ、乙には権利を有せしめざるも可ならん。ただ上帝の人を造る至公、至正、決して甲の人の額には『汝権利あるべし』と印し、乙の人の額には『汝権利あるべからず』と印するが如き、偏仁偏愛なきをいかんせんや。(中略)それ男もまた人なり、女もまた人なり。男もまた幸福を享けざるべからず、女もまた幸福を享けざるべからず。あに男子に権利ありて、しかして女子には権利なしとの道理あらんや。(後略)」(「男女の同権」(植木枝盛『植木枝盛選集』家永三郎編、岩波文庫1974年)所収pp153,154)
● 植木枝盛「如何なる民法を制定す可き耶」・・・個人の尊重
「その民法を制定するには一民一民を以て社会を編成する者となすや、一家一家を以て社会を編成する者となすやを一定せざるべからず。・・・かつてつらつらこれを察す天下一民一民を聯(つら)ねて国を成す者あり、けだし最もその理を得たるものにして進化の徴にあらずんばあらず。一家一家を聯ねて国を成す者あり、理欠くる所ありて進化未だ足らざるものなり。」(植木同上書pp191−192)
まとめると、明治の自由民権運動特に植木枝盛の主権在民・基本的人権尊重・個人尊重が、憲法研究会(とくに鈴木安蔵)によって「憲法草案要綱」に流れ込み、これがGHQに提出されて、GHQ草案の骨子となり、それが日本国政府に押し付けられたというわけである。
(3) 象徴天皇について
2月3日に出された「マッカーサー三原則」においては、天皇にかんしては国家の元首に位置付けられていた。Emperor is at the head of the state. ところが、GHQ民政局行政部の天皇その他を担当した小委員会が作成した第一次案には、「第二条、日本国は皇統が君臨し、天皇は世襲である。皇位は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であり、天皇は、皇位の象徴的体現者である。天皇の地位は、主権を有する国民の意思に基づくものであって、それ以外の何ものに基づくものでもない」とあった(小西豊治『憲法「押し付け」論の幻』p145)。「国家の元首」と「象徴symbol」という表現はかなり違う。
にもかかわらず、「象徴」は第一次案に現われ、民政局内で議論の的になることもなく、すんなり合意された。小西豊治の推定によれば1946年1月に民政局内で回覧され読まれていた弁護士布施辰治「打倒?支持?天皇制の批判」(新生活運動社)を背景としているのではないかという。布施はここで天皇のありかたについて「民の心を酌んで君の心とする」と表現しており、これが上記第一次案のsymbolということばで表現されたのであろうとしている。あるいはそうかもしれない。
さらに肝心なことは、この象徴という表現は、すでに前年12月26日に発表され、民政局が深い関心を寄せていた憲法研究会「憲法草案要綱」の根本原則第三項、「1 天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る」とぴったり内容的に一致する用語であったということである。
また、天皇は「象徴」であるという表現は、憲法研究会で元来共和制論者であった室伏高信が議論の中で発案・発現したのが最初だという岩淵辰雄と三宅晴輝の証言があるが、発言した当人の室伏は記憶になく、鈴木安蔵の書記録にも残されていない(小西、同上書pp166−169参照)。1945年12月、岩淵はこの象徴天皇説をGHQ憲法顧問コールグローブに伝えた。岩淵は、コールグローブが民政局に「象徴天皇」を伝えられたのだと信じている(小西、同上書pp172−173参照)。コールグローブの証言、通訳者の証言は得られていないが、あるいは、そうであったのかもしれない。
いずれが事実であったにせよ、GHQ民政局内には、第一次案が検討されたときには「天皇を象徴とする」件については、異論は発せられなかったほどに、すでに彼らは合意していたし、それは憲法研究会の「憲法草案要綱」の「天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る」と一致していたのである。
幣原喜重郎が最晩年(昭和26年)に述べていることであるが、「元来、象徴が天皇本年の姿であり、権力などとは関係はなかった。民族のふるさとと言うか、日本人全体のお友達である。だから永くつづいてきたのであり、本来のその在り方に戻るのが陛下の願いであった。 」幣原が「象徴天皇」を発案したというのではないが、たしかに明治から戦前の軍事大権・政治大権をもった天皇のあり方は、確かに伝統にそぐわない異形のものであった。逆に言えば、明治に欧米列強に伍するために造り上げられた覇王のような天皇制が伝統に背くものであったからこそ、数十年で破綻してしまったとも言えよう。
こちら参照「国のありかたについて まとめ」の第6項
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130102/p1
以上で、「象徴天皇制」、「国民主権」、「基本的人権の尊重」という日本国憲法の四大特徴のうちの三つの源泉が一応あきらかにされた。残る「戦争放棄条項」の源泉はどこにあるのか?