苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自由を悪用する人々がいると

 かつて専制主義国家は、国教会主義で国民を縛っていた。我が国では戦前、国家神道儀礼に参加することは国民の義務とされていた。
 近代立憲主義は国家を制限することによって、国民を国家の束縛から解放し、基本的人権を確保するようになった。その中核が信教の自由である。
 ところが、信教の自由を悪用する人々が登場すると、国民世論はえてして、「国よ信教の自由を制限してくれ」と求める。国民は、その事柄の重要性を認識しないままに、自ら信教の自由という基本的人権の中核を放棄するのである。…今、統一協会の悪行とのかかわりで、こういうことが起こっている。
 文脈は律法の束縛からの自由ということで、ややちがうのだが、こういうことばが聖書にある。
「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」(ガラテヤ5章13節)