苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日本国憲法はメイドインジャパンである

 「日本国憲法はGHQからの押し付け憲法である」と主張し、「自主憲法制定」を訴える人々がいる。だが、ipadiphoneなどを自由自在に使っている若い世代に言わせれば、「お爺さんたち。日本製、外国製にこだわるより、いいものはいいんだよ。」というのだろう。
 だが、それだけでは気がすまないのがおじさんなので、日本国憲法の三大原則は、<国民主権基本的人権の尊重・平和主義>の三大原則はどこから来たのかを、ここで明らかにしておきたいと思う。
 (2009年12月に当ブログに載せたことのある文章の再録だが、少し筆を入れた。)


1.日本国憲法は明治自由民権運動の復活である


 1945年10月4日、マッカーサーは、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆を与えた。そこで、近衛は佐々木惣一元京大教授とともに憲法改正の調査に乗り出す。さらにマッカーサーは、10月11日、幣原首相との会談において、「憲法自由主義化」に触れたので、幣原内閣は、憲法改正に対応することになった。こういうわけで松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が10月25日に設置された。
 だが、翌年2月4日松本委員会がGHQに提出した憲法改正要綱は、帝国憲法と本質的に変わるところがなかったので、マッカーサーに拒否される。この拒否された松本委員会「憲法改正要綱」は
これである→http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/074shoshi.html


 他方、民間ではさまざまな団体・新聞が憲法改正案を発表していた。http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/revision.html#s3 そのなかで、格別に日本国憲法に直接的影響を及ぼしたのが憲法研究会による「憲法草案要綱」である。憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。

 鈴木安蔵が研究会の討議を経て、第一案から第三案(最終案)を起草して、12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。鈴木安蔵はかつて京都帝大生の時代、1925年マルクス主義に傾倒して、京都学連事件治安維持法逮捕第一号となって投獄された人物である。
 彼は、その後、マルクス主義の輸入ではなく、日本に生まれた明治の自由民権運動に学ぶべきであると考え、日本の憲法史の研究にいそしんできていた。鈴木は、起草の際の参考資料として、明治15年に起草された植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』、土佐立志社の『日本憲法見込案』など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた二十余の草案、また外国資料としては1791年のフランス憲法アメリカ合衆国憲法ソ連憲法、ワイマール憲法プロイセン憲法を参照したとしている。実際に読んでみると、『憲法草案要綱」は植木枝盛の影響が圧倒的である。
 同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇統治権を否定し国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として儀礼天皇の存続を認めた。また人権規定においては、『国家ノ安寧秩序ヲ妨ゲザルカギリニオイテ」という留保が付されることはなく、具体的な社会権生存権が規定されている。このように憲法研究会の憲法草案要綱の基本構造、象徴天皇制基本的人権の尊重・国民主権という日本国憲法の基本構造そのものである。下記の国会図書館のサイトを見れば、憲法草案要綱原文を写真版でも読むことができる。http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.html


 この要綱には、GHQが強い関心を示し、これを英語に翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた報告書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。憲法研究会案はGHQの英文日本国憲法の骨子となっている。次のサイトを見れば、その証拠文書が読める。http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/060shoshi.html
 鈴木安蔵の手になる「憲法草案要綱」の内容は、たしかに現行憲法つまりGHQが日本政府に押し付けたものに非常によく似ている。ここに、鈴木案のうち、根本原則として述べられる、国民主権天皇の位置づけ、基本的人権が述べられているところを引用しておこう。
「根本原則
 1 日本国の統治権は日本国民より発す
 1 天皇は国政を親らせず国政の一切の最高責任者は内閣とす
 1 天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る
  中略
 1 国民は法律の前に平等にして出生または身分に基づく一切の差別は之を廃止す
  中略
 1国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げるいかなる法令をも発布するをえず
  中略
 1国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す
  中略
 1男女は公的並びに私的に完全に平等の権利を享有す
 1 民族人種による差別を禁ず
 (以下、議会、内閣、司法、会計および財政、経済、補足は省略)

 GHQは1946年2月13日、英文の日本国憲法草案を日本側に渡した。当時、日本政府は知らなかったのだが、この英文新憲法の骨子は、民間の憲法史研究者、鈴木安蔵が起草したものだったのである。GHQ草案→http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html


 鈴木のおもな思想的源泉は、植木枝盛憲法草案をはじめ、明治時代、弾圧下に自由民権運動のなかで起草された数々の民間憲法草案であった。つまり、明治時代に国権主義と民権主義のたたかいがあったが、結局、国権主義が勝利を収めて、外見立憲君主制の帝国憲法ができた。だが、敗戦後、ひとたび葬られていた民権主義が民主立憲君主制日本国憲法というかたちで復活してきたというわけである。日本国憲法の三大原則の二つ、国民主権基本的人権は、日本製なのである。
 植木枝盛憲法草案は右参照。http://homepage2.nifty.com/kumando/si/si010515.html
これも・・→http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html
もう一つ・・http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20091231/p1

しかし、憲法研究会の「憲法草案要綱」には軍隊に関する定めがなかった。では、憲法9条はどこから来たのだろうか?


2.第9条は日本の総理大臣の発案

 日本国憲法は、憲法研究会の鈴木安蔵が書いた草案を骨子としてGHQが作成した英文憲法草案を邦訳したものである。しかし、日本国憲法のもうひとつの特徴である第九条戦争放棄条項は、日本の首相幣原喜重郎の発案である。また、この憲法が発布されたとき、日本国民はこれを喜んで支持した。(以下は、伊藤成彦氏の「軍縮問題資料」1995年所収論文から略述。)
 一九四六年一月二十四日正午、幣原首相はマッカーサー元帥を訪ね、約二時間半会談をした。この会談の内容について、マッカーサーは一九五一年五月五日の米国上院軍事・外交合同委員会聴聞会で証言をしている。少し長くなるが引用しておこう。
 「日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、言ったのです。『私は長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争をなくすことだという確信に至りました』と。彼は言いました。『私は非常にためらいながら、軍人であるあなたのもとにこの問題の相談にきました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないだろうと思っているからです。しかし、私は今起草している憲法の中に、そういう条項を入れる努力をしたいのです。』と。
 それで私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、それは取られ得る最高に建設的な考え方の一つだと思う、と言いました。世界があなたをあざ笑うことは十分にありうることです。ご存知のように、今は栄光をさげすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその考えを受け入れようとはしないでしょう。その考えはあざけりの的となることでしょう。その考えを押し通すにはたいへんな道徳的スタミナを要することでしょう。そして最終的には彼らは現状を守ることはできないでしょう。こうして私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れたのです。そしてその憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があったとすれば、それはこの条項でした。」
 この会談については、日本側からの証言もある。幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌は「(幣原首相は)かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、戦争を放棄するという事以外にはないと考える、と話し出した。ところが、マッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り、涙をいっぱいためて、そのとおりだ、と言い出したので、幣原はちょっとびっくりしたらしい。」と回想している。
 幣原首相は外相時代、平和外交の旗手であった。ところがその後、日本は中国において「自衛」と称して侵略を続け日米開戦にまで暴走してしまった。その苦い経験に基づいて、明瞭な戦争放棄が必要と考えたのだろう。また連合国側の天皇処罰要求を前に、国体護持のためには、これ以外道はないと考えたという観測もある。他方、軍人マッカーサーは太平洋戦争の残酷さを経験し、かつ核兵器の登場という事態を見て、少なくともこの一時期、戦争の廃止以外には人類を滅亡から救う道はないと思い至ったのである。マッカーサーは、その後の朝鮮戦争の頃の動きを見ればわかるように、永続的に戦争放棄を維持し続けるほどの信念を持っていたわけではなかったのだが、この一時期、幣原発案の戦争放棄の理想に感激し、それが日本国憲法に刻み込まれるということになったらしい。一種奇跡に近いタイミングだった。
 改憲派の学者らしき人々が、マッカーサー、幣原の回想録発表の時期などから主観的推測交えて、マッカーサーの作り話じゃないか?とためにする反論をしていることは承知している。だが、文書的な客観的証拠は上の事実を語っている。以上のようなわけで、日本国憲法のもう一つの特徴である憲法第九条戦争放棄条項もまた、国産なのである。
(参照 http://www.hotdocs.jp/file/68163


まとめ
 以上のようなわけで、「日本国憲法はGHQ押し付け憲法だ!」、「自主憲法制定!」という主張には、さしたる根拠がない。たしかに、日本国憲法はGHQによって押し付けられたのだが、押し付けたれたもの自体は実質上、日本人がつくったものだからである。海外旅行でお土産物屋さんに押し付けられたのだけれど、帰ってよく見たらmade in Japanとシールが貼ってあるというようなものだ。あるいはホンダの逆輸入バイクみたいなもの。
 どこで読んだのか忘れたけれど、日本国憲法が発布されたとき採られたアンケートでは、日本国民の85パーセントはこれを歓迎したという。一般庶民たちは、愛する者を失った戦争にはもうこりごりだし、人権蹂躙もこりごりだったのだから、あたりまえの反応である。(85パーセントという数字がどこに書いてあるかご存知の読者は教えてください。)戦争で大もうけしてきた人々や、戦前と同じように国民を支配し戦争をしたいと思っている特権階級の国権論者たちは、もちろん「押し付けられた」と感じていただろうけれども。
 日本国憲法の三大原則は、<国民主権基本的人権の尊重・平和主義>であるが、前の二つの原則は、明治の自由民権運動憲法案(特に植木枝盛)を研究した鈴木安蔵が起草した憲法研究会案が出典であり、第三原則は時の総理大臣幣原喜重郎の発案である。これらがGHQによって英訳され肉付けされて、GHQ草稿日本国憲法が作られ、これを日本政府が邦訳した。日本国憲法はこういうわけで、実質的に、逆輸入国産品であるといってよい。
 大きな歴史の流れを見ると、明治初期の自由民権運動を国権論の帝国憲法が押しつぶして軍国主義に暴走して破綻し、戦後、民権論が復活して日本国憲法ができた。しかし、今また、自民党改憲案(2012年4月27日版)は昔の国権論に戻そうとしているわけである。