苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

放蕩息子の譬え: 「父」が指すのはイエス

 昨日、生駒めぐみ教会の午後の集会に、奈良の兄姉が聞きに来てくれた。すべてのご奉仕を終えたあと、姉の家で炭焼きのホタテなど夕飯に舌鼓を打ち、久しぶりに楽しい語らいのときに恵まれた。かつて義兄と姉はだいぶものの考え方のちがった二人だったが、いろいろな困難を乗り越えて、うわべではなく本音のところでぶつかり合って、今はほんとうに仲の良い夫婦になっている。
 一泊させてもらい、朝を迎えた。今日は奈良でお好み焼きを食べ、法隆寺の建築を見せてもらいに行くつもりである。8年前小海の会堂を建てた前後、宮大工西岡氏の書物を読んで以来、いつかこの伽藍の建築をじっくり見てみたいものだと思っていた。


 さて、話はきのうの続き、ルカ福音書15章の譬えの理解についてである。
 ルカ福音書15章の放蕩息子の譬えは、通常、「父」は父なる神を指していると解釈される。筆者も長らくそのように理解してきた。しかし、きのうメモしたとおり、むしろ「父」はイエスを指していると理解したほうが、ルカ15章冒頭との対応という解釈上しぜんである。加えて、伝道説教構成という実践的な目的からして、有利である。
 放蕩息子の譬えの前半から伝道説教を構成したことがある説教者がみな経験することは、神の愛を語ることはできても、どこにどのようにイエス・キリストを登場させることができるかということであろう。ポイントの節は、「 15:20そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 」であろう。古代オリエント社会において、権威ある父が走ることは恥ずべき事とされたという。だがこの父は、みじめな姿で帰ってきた息子を見ると、矢も盾もたまらず、駆け出し抱きしめ接吻してやまなかった。ここには、天の栄光の玉座を捨てて地に下られたイエス・キリスト受肉と受難を暗示している。それは事実である。 だが、問題は説教を聞く側からすると、イエスの登場が唐突であり、混乱を感じるのである。というのは、「父」は父なる神とされていたのに、駆け寄ったのは御子イエスであるというのであるから。
 だが、みことばの解き明かしの最初に、譬え話の枠組みの説明において、「父」は御子イエスを指し、次男坊は「取税人・罪人」を指し、兄は「パリサイ人、律法学者」を指しているとすると、この混乱を招かないですむ。どういうことか。「ある人にふたりの息子があった」という譬えの発端から、イエスと人間との基本的な関係を語りだす。子たちが父に似ているように、人間は「神のかたち」である御子イエスにもともと似た者として造られている。「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」それゆえ、私達は御子イエスとの人格的な交流をするものとして造られている。
 ところが、次男坊が父に背を向けて都会に出奔し、かつ、都会で遊蕩し、無目的な滅びの人生に陥ってしまった。そのように、人間はイエスに背を向けて、滅びのうちを歩んでいる。だが、金が尽き、ききんに襲われたとき、次男坊は我に返って、父のもとに帰っていくことを決心する。そのように、私たちは人生の苦難のなかで我に返って、帰るべきお方は誰なのかと求め始める。
 次男坊がこじきのような悪臭を放つ不潔な姿をした息子が故郷への道をたどっていると、遠くからそれを見つけた父がかわいそうに思い、息子に駆け寄って、抱きしめ、接吻をした。そのように、イエスは罪に打ちひしがれている、もともとご自分に似せて造られた存在である私たち人間をかわいそうに思い、天の栄光の座を捨ててこの世に来てくださり、私たちの罪をあの十字架の上でその身に引き受けてくださった。
 
 御子と人間の存在論的次元における関係が、救済的次元における関係の基礎となっている。その釈義的研究については、こちらを参照されたい。→http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20110210