苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

生駒めぐみ教会で

 昨日から生駒めぐみ教会でご奉仕でした。土曜日は、「聖書から原発と明日のエネルギーを考える」というテーマでお話をしました。原稿は、すでに本ブログで4回にわけで公開したものです。関西方面は、原発問題について関東のようには関心がそれほど高くはないのですが、それでもご意見をお持ちの方がいらっしゃいました。やはり、これほど恐ろしく危険なものがいつのまにか、列島を取り囲むように54基もすでに出来てしまっていたということに、脅威をおぼえているというご意見がありました。また、「原発は安全です」とか、「原発がないと電力はたりない」とか、原発がいちばん安くつくのだ」とかいう政府と東電のお話がうそばかりだったということに、ショックを受けたということでした。
 
 主の日の朝礼拝と、午後の集会ではルカ福音書15章の「父と放蕩息子ときまじめな兄」の話からしました。今朝の5時に改めて思い巡らしていたら、ルカ15章1,2節がこのたとえ話が話された背景であることを考慮すると、父と弟息子ときまじめな兄が指しているのが、父は主イエスであり、兄はパリサイ人・律法学者、弟は取税人・罪人であることに気づきました。30年以上、父は「父なる神」を指すものとして読んできたのですが、むしろ、父はイエスを指すのだと読むほうが自然なのだということに気が付いたのです。
「15:1さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 15:2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。」というのがたとえ話の背景です。
 他方、例え話の内容は、弟息子が放蕩三昧ののちに、父のもとに帰ってきたら、父は弟を迎えて宴会を開いた。すると、兄息子は父親は放蕩の弟を迎えて宴会をしたといって不機嫌になったということです。
 父がイエスをさしていると読むのが、自然であることに気づくでしょう。
 
 出先での書き込みなので、きょうはここまで。