苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代のキリスト教伝来 思いつくまま

 神学校図書館で佐伯好郎『景教の研究』を借用してきて読んでいる。
 ペンテコステと古代の世界宣教を調べていたら、十二弟子のひとりトマスのアッシリヤ地域、インド宣教、さらに彼が初代大主教として創設したアッシリヤ東方教会による唐代の中国宣教のことまで視野のなかに入ってきたのは、興味深いことだった。もっともアッシリヤ東方教会はシリヤ教会の一枝であり、中国宣教はペテロの創設したシリヤ教会のしたことだという記述もある。両教会ともHPがある。
http://www.syrian.jp/002-3-5.htm
http://www.assyrianchurch.org.au/
 いずれにせよ、唐の第二代皇帝太宗の貞観の治と呼ばれる「たいそう」すばらしい時代、国際都市長安に本格的にもたらされたキリスト教は「大秦景教」と呼ばれて二百年間保護されて中国全土に大秦寺が建てられた。これは正史に記録された事実であり、そのことは有名な大秦景教流行中国碑にも記されている。しかし、やがて道教を信奉する武宗皇帝という「ぶっそう」な皇帝が登場し仏教もキリスト教も大弾圧したために、滅びてしまった。これを会昌の廃仏という。ローマ帝国の弾圧下では「殉教者の血は教会の種」となったのに、なぜ中国ではそういかなかったのだろうか?これは謎。
 その先の、シルクロードの果て日本へのキリスト教伝来についてはどうなのだろう。
 もうひとつ前から気になっているのは聖徳太子のこと。現在の小海の会堂を建てたとき、わたしは手伝いに毎日通ったのであるが、大工さんに、「イエス様は大工さんだったんですよ。」と話したら、「へえ。それじゃあ、先生、大工の神様が聖徳太子だってこと知っているかい。」とおっしゃった。それは初耳だったのだが、ひらめいたのは『そういえば、聖徳太子の本来の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)だったなあ』ということだった。聖徳太子伝説とキリストの降誕の事跡はつながりがあるのかと思ったのである。
 今回、少々調べたら、やっぱり同じようなことを思った人はいて、聖徳太子伝説は景教の影響を受けているという仮説に出会った。根拠として挙げられているのは、聖徳太子のブレーンだった秦河勝という人物が、その名からわかるように6世紀に応神天皇の時代に集団で渡来してきていた秦氏の棟梁であった。秦氏ペルシャ系かペルシャ在住のユダヤ人の景教徒の氏族であったという。秦氏が住んだ京都太秦(うずまさ)の地の太秦寺は、景教の礼拝堂だったとされる。ただ、年代的な矛盾があるとして、学界からは批判を受けて受け入れられていない。すなわち、秦氏は4-5世紀には日本に来ていて、中国への景教の公式伝来は635年であるからである。中国のは大秦寺、日本のは太秦寺、字が違うことに注意。
 これに対して、秦氏弓月君という人物に率いられてきていて、弓月国は中東キルギス近辺のキリスト教国だったという再反論もされている。秦氏は、日本書紀によれば、応神天皇の283年に弓月君百済から12県の1万8670人を連れて、 日本に来たというのである。つまり景教の中国伝来よりも早く、弓月君が日本にもたらしたというわけ。もっともこれは佐伯氏の願望をこめた主張のようで、学界では無視されているようである。弓月国を発掘調査し、文献的に弓月国が景教徒であることが立証され、彼らのうちから東方への移住者がいたことが立証されたら、話は変わってくるだろう。
 なにが本当かわからないのだが、筆者は、前々から日本史教科書が教える日本へのキリスト教伝来がフランシスコザビエルの1549年だという公式見解は、異常なほど遅すぎると感じていたから、この説にいささかの共感をおぼえる。日本がいかに島国と言っても1639年以後の鎖国以前には大陸との交流は結構さかんに行なわれていた。シルクロードの最東端、奈良の正倉院に御物にはペルシャの水差しや楽器やガラス器があるのに、キリスト教徒だけは日本に渡来しなかったというのはどうしても腑に落ちなかったのである。古代の飛鳥ないし奈良朝廷の仏教国教化政策の下に歴史書を編んだ学者たちにとっては、もしかすると仏教伝来より早い古代のキリスト教伝来は隠しておきたいことだったのだろうか、などと想像もふくらむ。
 そういえば父の親友に秦さんという優秀な人物がいたが、顔立ちは彫の深いペルシャ系・・・では全然なくて、朝青龍みたいなモンゴル系だったなあ。もう千数百年のうちにDNAが混じってしまったのだろうか。

娘と蒔いた枝豆が芽を出しました。