ヒッポの司教。西方教会最大の教父。恩寵の博士。アフリカ人にして西洋の教師。そして、牧会者。伝記としては、P.ブラウン『アウグスティヌス伝』(出村和彦訳、教文館)が白眉。
1.生涯の概略
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354-430)は、ヘレニズム時代末期(古代末期)の354年、北アフリカの小都市タガステに中産地主の父パトリキウス(後にキリスト者となる)と熱心なキリスト教信者(カトリック教徒)モニカの長男として生まれる。父はローマ人だが、母はベルベル人だった。アウグスティヌスにとって母語はベルベル語であり、彼はローマに憧れつつローマに反感を抱いていたと思われる。また彼が若い日に遊学したカルタゴという場所は、かつて地中海世界に覇を唱えたフェニキヤ人の植民地であって、ポエニ戦争では象に乗った英雄ハンニバルがローマに対して奮戦した。対岸にある帝都ローマに対するアンビバレントな感情は、後年、『神の国』に現れるローマ批判の背景のひとつと思われる。
16歳のときに北アフリカのカルタゴに遊学し、当時としては普通のことであったとはいえ、ある女性と同棲生活を始め、翌年には、17歳にして1児(アデオダトゥス)の父となる。ペルシアのマニ(215-275)という人物が創始したマニ教に入信し、熱心なマニ教信者になった。このあたりの経緯と解釈については、味わい深い山田晶『アウグスティヌス講話』を読まれたい。
マニ教は、典型的なインド・ヨーロッパ語文化の宗教で、世界は光と闇、善と悪の対立抗争する場であり、人間のすべての不幸はこの対立抗争にあるとして、人間の救いは、マニ教の聖者の教えを聞き、儀式に参加し、禁欲生活をすることによって自らの魂を肉体から解放することにあるとした。またマニ教は、旧約聖書に描かれた神を荒唐無稽で不合理、不道徳な神であるとして激しく非難していた。アウグスティヌスがマニ教に入信した理由については、様々に言われていますが、その理由の一つに、アウグスティヌスは、マニ教の教えによって自分の抑え難い欲望を克服しようとしたこともあるのではないか。アウグスティヌスにとって、「悪と罪の問題」は生涯の課題となる。
彼はその後383年、マニ教を頼ってローマ帝国の首都ローマに行き、一年後には、イタリア北部の町ミラノで、人々に立身出世を約束する修辞学教師となる。しかしここでアウグスティヌスは、マニ教の著名な教師に失望し、ミラノのキリスト教指導者司教アンブロシウスの説教を聴き、遂にマニ教を捨ててキリスト教の教会に足繁く通う。そして同じ頃、新プラトン派の書物を読んで、プロティノスの新プラトン主義を学ぶ。これはアウグスティヌスのキリスト教理解に大きな影響を与える。
やがて386年、「とりて読め」の声にしたがい、決定的な回心を経験して、全面的にキリスト教を信じ、洗礼を受けた。 Confessiones『告白録』は必読古典。山田晶訳(中央公論社)がお勧め。
その後、ミラノで10年余りにわたってマニ教を批判する活動を続けますが、故郷のタガステに帰ってからは、親しい友人たちと修道生活を始め、息子のアデオダトゥスがなくなった翌年、391年には、ヒッポの司教ヴァレリウスにその深い信仰と高い教養を評価されて司祭に叙階され、ヴァレリウスの死後396年には、その後任の司教に祝聖された。その後彼は牧会と著作活動に没頭。ドナトゥス派論争で教会・礼典論を、ペラギウス派論争で恩寵救済論を確定。『神の国』で歴史哲学を展開。
ゲルマン民族の一派のヴァンダル族によってヒッポが包囲されまさに陥落しつつあるとき、亡くなった(430)。
<注>
【カルタゴ】(Carthago)アフリカ北部、チュニス湾に臨む古代都市。紀元前9世紀頃、フェニキア人によって建設され、前6世紀にはギリシアを破って、地中海の制海権を獲得。紀元前146年、ポエニ戦争によって滅亡。その後、カエサルによって再興されたが、698年、アラビア人に破壊された。
【マニ教】(Mani)3世紀にマニ(215頃〜275頃)がイランにおいて始めた宗教。ペルシア固有のゾロアスター教的二元論に、グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。四世紀には、ローマ・北アフリカの都市知識層に迎えられ、六、七世紀にはチベットから中国にまで達したが、しだいに道教に同化された。
【アンブロシウス】(Ambrosius、340-397)キリスト教の初代教父。聖人。ミラノの司教。アウグスティヌスをキリスト教に導き、またテオドシウス帝に民衆虐殺の非道を懺悔させた。アンブロシウス聖歌と呼ばれる讚美歌集も作った。
<アウグスティヌス年譜 >〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
資料→http://arcadissima.cool.ne.jp/Augustinus/augustinus.vita.htm
年(年齢) 出来事 関連する周囲の出来事など
<幼少・少年時代>
354 11月13日、北アフリカのタガステに生まれる。父親パトリキウスは土地の名士(死の直前まで異教徒)、母親モニカ(Monnica)は熱心なクリスチャン。
幼時 重病になり、両親は洗礼(=死ぬ前の儀式として)まで準備するが、回復する。
少年期 学校でスパルタ教育を受ける。ウェルギリウスをはじめとするローマ古典に親しむ。ギリシア語は不得意。ある時期にマダウラへ移る。
370 (16) マダウラの学校をやめ、しばらくタガステでブラブラする。ローマニアーヌスと知り合う(パトロン)。「梨を盗む」事件。その後、大都市カルタゴに移って弁論術の勉強を続ける。この前後に父親が死去。カルタゴで(?)ある女性と同棲を始め、息子アデオダトゥス(372頃-390以前)をもうける。
<青年時代>
373 (19) キケロ『ホルテンシウス』(散逸)を読んで感激し、「知恵を愛する」生を送ろうと決心する(=哲学への「回心」)。聖書は文体が拙劣だという理由で軽蔑する。 マニ教(キリスト教の異端的分派)の「聴聞者」となる(382頃まで9年間、形の上ではそれ以降も)。モニカは息子の行状を嘆く。 哲学の勉強を続け(独力でアリストテレス『範疇論』を読む)、一方でマニ教会に通い続ける。『美と適について』(381頃、散逸)を書く。学問(artes liberales)を一通りマスターする。
375 (21) タガステに戻り、文法と弁論術の教師となる。親友の死。
376 (22) カルタゴに移り、教師を続ける。
381年、コンスタンティノープル公会議、「ニカイア・コンスタンティノープル信条」の制定。
383 (29) マニ教の司教ファウストゥスに会って教義上の質問を向けるが、満足できる答えが得られず、マニ教に失望する。また学生にも失望(学級崩壊)。 カルタゴに来ていた母親モニカを振り切ってローマに渡る。ローマで懐疑主義哲学に接近する。教師を始めるが、学生が授業料を払わないので失望する。
384年、ローマ元老院のウィクトリア祭壇をめぐる論争(シュンマコスvs.アンブロシウス)。
384 (30) ローマ市長シュンマコスの推薦を受け、ミラノの弁論術教師に抜擢される。カルタゴ以来の友人アリューピウスと一緒にミラノに移住する。ミラノでまず司教アンブロシウスと面会する。シンプリキアーヌスとも知り合う。 モニカがミラノに来る。アンブロシウスの説教を通して、次第にキリスト教カトリック教会の教えを理解しはじめる(特に、聖書の「アレゴリー的解釈法」)。 モニカ、息子を正式に結婚させようとする。アウグスティヌス、長年の同棲相手と別れ、彼女をアフリカ(タガステ?)に帰らせる。 正式な結婚を取り決めるが、それが実行可能になるまで(相手が若すぎた)、とりあえず別の女をつくる。
<回心>
386 (32) M・ウィクトリーヌスによるラテン語訳で新プラトン哲学の書物(プロティノス他)を読み、惹かれる。シンプリキアーヌスを訪ね、ウィクトリーヌスがキリスト教に回心した時の話を聞かされる。次いで、ポンティキアーヌスから修道士アントニオスの話(アタナシオス『アントニオス伝』)、そして修道生活の話を聞かされる。 理想と現実の間で悩みつづけていたある日(8月1日前後)、隣の家から「取って読め」という声が聞こえたので、手元にあった聖書を開いて読む。それはパウロの手紙(ローマ書13:13-14)であった。アウグスティヌスは一瞬にして(正統)キリスト教に「回心」する(=「庭の場面」、『告白』8,8; 8,12)。 葡萄収穫の休暇を待って、母親およびアリューピウスと一緒に、ミラノ近郊の村カッシアークムにあった友人の別荘に引きこもって擬似修道院生活を始める。集中的な著作活動。休暇が終わると、正式に職を辞する(肺病の兆候があったのでそれをも口実にした)。
387 (33) カッシアークムを出てミラノに戻り、教会の洗礼志願者となる。復活節(4月24/25日?)、アリューピウスと息子アデオダトゥス(当時16歳)と共に洗礼を受ける。間もなくアフリカに帰るが、途中(オスティア)で母親モニカが死ぬ。アフリカに渡るのを中止し、ローマに行く。
388 (34) 夏を過ぎてからアフリカに戻る。カルタゴを経由して、秋のうちに故郷タガステに到着する。仲間(おそらくアリューピウスその他)と共に擬似修道生活を始める。
<司祭時代>
390 (36) ヒッポの司教ウァレリウスと市民たちの希望で、不本意ながらヒッポの司祭職を引き受ける(391年初頭かも)。
391 (37) 司祭としての仕事を開始するかたわら、ヒッポに修道院を建てて禁欲的修道生活を送る。
396 (42) この前後に司教となる。当初はウァレリウスとの共同司教、ウァレリウスの死(396?)の後はヒッポの単独司教。
<司教になってから>
398 (44) ドナトゥス派弾圧が激化。411年ごろまで、反ドナトゥス派の著作や活動(公会議への参加)を精力的に続ける。
400 (46) この頃『告白』を書く(397-401?)。
410年8月24日、アラリック率いる西ゴート族がローマを占領・略奪。
410/411 (56/57) ローマを逃れたペラギウス、ヒッポに滞在(アウグスティヌスは病気で不在)。ペラギウス派のカエレスティウスを巡って、対ペラギウス論争が始まる。411年、対ドナトゥス派公開討論(カルタゴ)、ドナトゥス派の禁止。
413 (59) 『神の国』執筆開始(徐々に公刊され、完成は426 年)。
418 (64) カルタゴ公会議(5月)。ペラギウス派、勅令によって禁止される。
420 (66) この頃『三位一体論』が完成(執筆は400年頃から)。この頃からアエクラーヌムのユリアヌスとの論争が始まる。
426 (72) 『神の国』全巻が完成。その一方で対セミ(「半」)ペラギウス主義論争が始まる。
427 (73) 『再考録』(Retractationes)を完成。
429年にヴァンダル族が北アフリカに侵攻し、430年夏、ついにヒッポを包囲。
430 (76) 8月28日、ヴァンダル族による包囲中のヒッポにて死去。
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2.ドナティスト論争
(1)その歴史的背景
広く言えば背景は、修道院運動と同じように、コンスタンティヌス帝の回心のもたらした状況にある。つまり、教会が帝国と手を握り、全体として堕落してしまったという認識である。修道士たちは、砂漠にのがれて修道生活をすることによって、その不満を表したが、ドナティストたちは、堕落した教会は教会ではなく、自分たちのように熱心・忠実なものたちの新しい群れこそ真の教会であると主張した。
(2)経緯
ドナティスト問題は、迫害時の棄教者をどのように教会に復帰させるべきかという課題から生じた。激しい迫害が起こったとき、迫害の終わったときに同じ問題に教会は直面した。迫害のときに信仰を捨てた者が、教会に回復することを希望したときどうするか?
カルタゴの司教座を巡る問題。
311年司教フェリクスはカエキリアヌスをカルタゴ司教に任職した。
しかし、フェリクスは、かつてディオクレティアヌス帝の迫害のとき、聖書、聖なる者を官憲に渡し棄教した者であった。
そこでヌミディアの司教たちは、フェリクスの任職を否認し、別にマリヨヌスをカルタゴ司教として選任した。さらに、マリヨヌス死後、学識と実行力を兼備したドナトゥスが公認とされ、厳格派を率いてドナトゥス派と呼ばれる。
ドナトゥス派は、①背教者の行なった礼典は無効であり、②自派の教会のみが真の教会であり、③ドナトゥス派に改宗する者は、再洗礼を受けるべしとした。
逆に、カトリックはどうしたか。ドナトゥス派からカトリックに移る者には再洗礼は求められなかった。洗礼は、その執行者の人物いかんではなく、事柄自体に有効性の根拠があるとされたからである。
<社会的背景>
実はこの論争には社会的背景がある。
カエキリアヌスの支持者はカルタゴとその周辺の総督領に集まっていた。他方、西方のヌミディア、モーリタニアではドナトゥス派が一般的だった。カルタゴとその周辺地域にはラテン化された大土地所有者や商人、軍人などが住んでおり、イタリアとの貿易で利潤を独占していた。
他方、ヌミディア、モーリタニアの人々は下層の農民たちであり、彼らの小麦をはじめとする農産物をカルタゴの支配層が安く買って、イタリアに売って巨利を得ていたので、反発があった。
しかも、ヌミディア、モーリタニアに住む下層民には従来からキリスト教徒が多く、彼らはローマ帝国の偶像崇拝を初めとする罪と戦ってきた。ところが、コンスタンティヌス大帝の改宗によって、カルタゴのローマの支配層たちが急激に改宗して教会に押し寄せてきた。そして、教会はこの世的になり堕落し始め、政治と経済の実権を持つ連中が、やがて教会でも実権を持ってしまうであろうということは眼に見えていた。こうした事態に対する反発が、ドナティスト派と一体となった。
ドナティストたちはやがて340年頃になると、暴力的手段に訴えるキルクムケリオーネスまでも出現した。彼らは殉教願望が熱狂主義になって、信仰をゆがめている人々に対する戦いで死んだものを殉教者とみなすようになった。
4世紀末、アウグスティヌスがカルタゴの司教に就任した時点では、教区ではドナティストが多数を占めていた。彼は、説得に努めるが功を奏さなかった。
411年カルタゴ会議で大論争。皇帝は統一命令を出し、ドナティストを異端と宣告する。ローマ当局は軍事力を行使して、虐殺と制圧が行なわれ、聖職者は追放、教会と財産は没収された。しかし、実際には、制圧はしきれず、最終的にドナティストが消滅するのは7世紀のイスラム教徒による征服後である。
(3)その神学的な意義・・・アウグスティヌスの洗礼論~教会論の確立
a.『洗礼論』
「背教者も教会に復帰し悔い改めて回心するならば、たとえ再び洗礼を施されずとも、前の洗礼の恵みが失われたなどと考えるべきではない。」1:2
「洗礼を受けた人が教会の一致から離れても叙階された人が教会の一致から離れようとも、洗礼を施すサクラメント権を失わない。」(1:2)
「世界で一なる教会に属する者に再洗礼を施そうと務めている人々が不敬虔なわざをなしていることである。また神与のサクラメントであれば、たとえ分離派におけるものであってもあえて否認しないわれわれが正しい態度をとっていることになる。」(同)
問「異端者が有効な洗礼を授けうるか?」
答え
① 異端者による洗礼も有効である。理由は、教皇ステファヌスによって権威ある承認を得たから。これが権威による論証。アウグスティヌスは教会の公的決定を重んじる。
その上で、アウグスティヌスの信仰は理解を求める。聖書からさらに論証していく。・・・・
②1コリント1:3「あなたがたはパウロの名においてバプテスマを受けたのか」ということばから、真のサクラメントの授与者は人としての司教ではなくキリストである。だから、司教個人の人格が汚れているか清いかは、サクラメントの有効性に何ら関係ない。
③マルコ9:38−39から、聖職者の人格の正邪や正統か異端かは洗礼の有効さに影響しない。マルコ 9:38-39
ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
④ヨハネ1:13によれば、キリストこそ洗礼を授けるお方である。サクラメントはキリストがお授けになるのであり、執行している司祭は道具にすぎない。ヨハネ 1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
⑤「ユダが洗礼を授けた人々も、実はキリストが洗礼を授けたのである。」(ヨハネ福音書講解ヨハネ5:18)
トリエント公会議(16C)で確認され定式化された表現。
ex opere operato(なされたわざから)・・・・事効説(アウグスティヌスの趣旨からいえば、むしろキリスト効説と呼ぶべきだが)
ex opere operantis(なす者のわざから)・・・・人効説
(4)「解放の神学」の観点から見るアウグスティヌスの限界
アウグスティヌスは、ドナトゥス派の問題の社会的経済的背景には気づかなかった。彼自身は収奪する側に属していたから。(類似のことをいえば、アンドリュー・マーレーという改革派の優れた器が有名だが、彼は南アフリカのアパルトヘイト政策の問題に気がついていたのか? Amazing Graceで有名なジョン・ニュートンは回心後も奴隷商人をしていて良心の痛みを感じなかったと、手紙のなかで自ら告白している。今日までラテンアメリカを食い物にしてきた米国の教会人が、ラテンアメリカの貧困層の苦しみを理解できないのと同じ。)
*『解放の神学』の課題
支配階級が正統的教会に擁護されることになり、被支配階級がその正統的教会の欺まん性に対して反発するということがしばしば起こってきた。教会が権力と結ぶとき、教会が社会体制維持、民衆に目隠しをして社会の欺瞞を悟らせないための道具として用いられてしまうということが起こってしまいがちである。「宗教はアヘンだ」といった共産主義者のいらだちと反キリスト教政策の理由である。ソ連や東欧などの共産圏では徹底的にキリスト教は弾圧された。
ラテンアメリカに対する米帝国主義の支配に対する抵抗の中から、「解放の神学」が生まれた。参照:グティエレス『解放の神学』岩波新書
聖書はローマ書13章で地上的権威の積極的意義を片方で説くが、その悪魔性については黙示録13章、不当な貪りについてはヤコブ4章で説いている。