苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

通り過ぎた祭司

「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」ルカ10:30−32
 きまじめで敬虔な祭司は、聖なる職務にあずかるために道を急いでいた。ところが、そこに見つけたのは、追いはぎにやられたらしい着物をはぎとられて血まみれで半死半生の男だった。パレスチナの乾燥地帯で、水も飲まず、肌を露出していれば、まもなく死んでしまうことは目に見えている。祭司は考えた。
『神に選ばれた聖なる務めにあずかる私としては、死体に触れるわけにはいかない。死体に触れるものはけがれをこうむり、聖務にあずかれなくなるという定めがあるのだ。私はこの上なく聖なる務めに召された神のしもべなのだ。』
 こうして彼は、うめいている瀕死の男を見てみぬふりをして通り過ぎてしまった。彼は神の律法にこだわって、神のみこころから最も遠いことをしてしまった。律法はよいものであり、神のみこころが表現されたものである。しかし律法中毒という罠がある。
 律法中毒の処方箋とは、律法をお定めになった主が教えてくださった律法の根本精神に立ち返ることをおいてほかない。なんのためにもろもろの律法は定められているのかと、律法の目的に立ち返ることである。律法の眼目、それは、神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することに他ならない。もろもろの律法は、この眼目を実現するための手段・方法にすぎない。目的と手段を取り違えてはならない。
「愛は律法をまっとうします。」ローマ13:10
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 神がお造りになった多様な側面をもつ生活世界の中で、私たちはえてして自分がこだわりを持つ側面のみを絶対化するという過ちに陥ることがある(5月27日参照)。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090530/1243638032
この祭司の場合、祭儀律法というのがこだわりだった。食べ物にこだわったり、金銭にこだわったり、社会的地位にこだわったりしている場合には、神よりも食欲や金銭欲や名誉欲を優先しているということを自覚しやすい。しかし、祭儀律法は神の啓示によるものであるだけに、かえって中毒症状に陥っていることがわかりにくい。主イエスの論敵は、この祭儀律法中毒患者たちであった。
 主はしばしば「わたしはあわれみは好むがいけにえは好まない」ということばを引用なさって、こういう人々を諭された。