苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈の前提となる神観・世界観

 日本長老教会によるN.T.ライトに関するレポートで、ライトの聖書理解の手順が示されている(37ページ)。ライトは、聖書のある概念を理解するには、まず第二神殿期のユダヤ教文献を読むことが必須であるとする。

①まず第二神殿期のユダヤ教文献においてそれがどのように教えられているのかを調べ、
②次にユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じてあると仮定し、これを新約聖書の解釈に適用する。
③そして最後に旧約聖書を開き、第二神殿期のユダヤ教文献および新約聖書とのつながりを確認する。

 上に述べたライトの聖書解釈の方法は、別にライトが見つけ出した彼に独特のものではない。単に啓蒙主義的前提に立つ聖書学者たちの土俵に上がるために、彼らの方法を無批判に援用したにすぎない。
 啓蒙主義的前提に立つ聖書学における前提とは、実証主義における前提である。実証主義とは、「知識の対象を経験的事実に限り、その背後に超経験的実在を認めない立場。超越的思弁を排し、近代自然科学の方法を範とする。」(goo辞書)ということである。超経験的実在とは要するに神を認めず、仮に理神論者のように神の存在を認めても、神が与える啓示を認めないということである。したがって、聖書は神の啓示の書ではなく、聖書各書は執筆当時の文化的産物であるということになる。だから、当時の文化との類似性という観点から、聖書各書を読むならば、聖書は正しく理解できるということになる。

 それでライトは彼らの真似をして、第二神殿期のユダヤ教文書を物差しにして新約聖書を読むわけである。筆者はライトが実証主義者・自然主義者であるなどと言おうとしているのではない。彼は主の再臨をも信じるまぎれもない超自然主義者である。ただ残念なことは、ライトは啓蒙主義的前提に立つ聖書学の方法論の背景にあるものに気づかないで無批判に用いてしまっているのである。

 他方、私たちは、聖書は神が執筆当時の人間のことばを用いて啓示した書物であるという信仰に立っている。したがって、聖書には神のことばとしての性質と、人間のことばとしての性質とが兼ね備わっている。聖書各書を読むときには、当時の人間が形成した文化との類似性とともに、いやそれ以上に、当時の文化と相違する聖書の独特な点にこそ注目しなければならない。そこにこそ、神のメッセージが現れているからである。使徒パウロは、自分の宣べ伝えている福音がユダヤ教由来のものではないと力説しているのに、それをユダヤ教に還元しようとする学者たちは、なんと的外れなことをしているのだろう。

 

「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」ガラテヤ1:11,12