苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

オリバー・ツイストとキリスト者の生涯

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。たしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」ヨハネ14章16—20節


 今年のペンテコスの主日礼拝ではヨハネ福音書14章からお話をしました。主イエスは弟子たちの元を去る前に「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と約束なさいました。主は、父の御許から聖霊を送ることによって、キリストの弟子たちは父と子の交わりに入れていただけるのだという約束です。

 この個所を思いめぐらしているうち、私は19世紀前半の英国の作家チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』という作品を思い出しましたので、そのお話をして結びました。作品のあらすじをざっと説明してみましょう。

 背景となっているのは、19世紀、華々しい産業革命の時代の陰で貧富の格差が極端に広がった最暗黒のイギリスです。イギリスのある地方都市で行き倒れになっていた若い女が救貧院に運ばれ、男の子を産むのですが、まもなく死んでしまいます。赤ん坊はオリバー・ツイストと名付けられ、他の子どもたちとともに、院長から非人間的な酷い扱いを受けます。

 その後いろいろなことがあって、彼はロンドンに放浪し、そこでフェイギンをかしらとする窃盗団に取り込まれて、盗みをするように仕込まれるのです。ある日、仲間の少年たちと一緒に町中に出ている時に、仲間が本屋である紳士の持ち物を盗み、すぐに逃げます。オリバーはただ見ていただけだったのですが、逃げ遅れて、おまわりさんに犯人と間違えられて捕まえられてしまいます。しかし、幸い本屋さんが「いや、この子は何も盗んでいません」と証言してくれたおかげで、釈放されて、オリバーはあの本を読んでいた紳士に引き取られるのです。

 この紳士はブラウンロー氏という素晴らしく温厚で誠実な人物で、オリバーはこの一家の中で幸福な生活を始めます。その後も窃盗団の頭フェイギンがオリバーを取り戻そうとして、しつこくちょっかいを出すので、何度もたいへんなことが起こるのですけれども、最終的には窃盗団の頭フェイギンは逮捕され絞首刑となり、オリバーはブラウンロー氏の家族の中で幸福をえるのです。

 きっと、チャールズ・ディケンズは、『オリバーツイスト』という作品を通して、私たちクリスチャンのことを描いたのだと思わされました。アダム以来の罪ゆえに、私たちは生まれながらには真の神様を知らない霊的な孤児でした。そして、悪魔の手下として手なずけられ、嘘をついたり、密かに盗みをしたり、神ならぬ物を拝んだり、人を憎んだりしては良心の呵責を感じたり、自分はなんの為に生まれて来たんだろう、なんのために生きて行くんだろうと空しい思いをしていたのです。

 けれども、イエス様と出逢って、悪魔の支配から解放されて、聖霊を受けて神の家族の交わりの中に入れられたのです。なおも悪魔は、私たちに執着してちょっかいを出して私たちを誘惑して罪を犯させたり、「お前など救われているものか」とささやきかけて失望させたりするのですが、最終的には、神は悪魔をゲヘナの火の中に落としてしまわれます。そして、私たちは神の家族、神の王国に迎えられて永遠のいのちにあずかるのです。

 主イエスはおっしゃいました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない。」主イエス聖霊を送って下さり、私たちは三位一体の愛の神の交わり、主に在る兄弟姉妹の交わりの中に取り戻されたのです。地上にあって、私たちはなおもフェイギンならぬ悪魔の誘惑に悩まされますが、神様はついには必ず私たちを天にある永遠の家へと導いてくださるのです。