苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

すべてを信じられない→すべては信じられない

ルカ24:25,26(新改訳2017)

25,そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26,キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

 昨日は復活日礼拝で、ルカ伝の「エマオ途上」の記事を解き明かしました。気になったのは、上に掲げた24節の「すべてを信じられない」という新改訳2017の訳文です。ここは文脈的に見て部分否定の箇所です。つまり、弟子たちは旧約のメシア預言における「栄光のキリスト」については信じて待望していたのですが、キリストの受難については信じていなかったことを、主イエスは愚かだとおっしゃっているのです。

 「すべてを信じられない」というのは、「何もかも信じられない」という意味とも、「ある部分は信じるけれども、他の部分は信じられない」という意味とも取ることができる表現ですが、ここは後者の意味と取るべきところです。翻訳者は後者にとってもらいたいと思いながら、この訳文を採用したのではないかと推測します。しかし、もしそうであれば「部分否定」を明瞭に表すために、「すべては信じられない」という訳文を採用した方が、もっと良かったかもなあ、と思うところです。

<追記>
 「メシアに関する預言の全貌が見えていない」という意味だと知人が指摘してくれました。その通りですね。