苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン8月6日

イザヤ書53章11節
口語訳
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

新改訳
彼は、自分のいのちの
激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、
その知識によって多くの人を義とし、
彼らの咎を彼がになう。

新共同訳
彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。

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 イザヤ書53章は、使徒8:30−35、および、1ペテロ2:22−24で明言されているとおり、イエス・キリストの受難の預言である。
 この箇所、訳文によって違いがある。気になるのは口語訳の「苦しみにより光を見て」、新改訳「激しい苦しみのあとを見て」、新共同訳「自らの苦しみの実りを見」のちがい。特に口語訳の「光」が不明。NIVにもlightが入っている。<追記:「光」という語はクムラン写本と70人訳による>
 それから、口語訳と新改訳は「その知識によって」を「義とする」にかかるものとして理解しているのに対して、新共同訳は「満足する」にかかるものとして理解して、「それを知って満足する」と訳している。
 さらに、口語訳「義なるわが僕」、新改訳「わたしの正しいしもべ」だが、新共同訳はただ「わたしの僕」として、どういうわけかツァディークを訳出していない。理由は不明。
 以上のような違いはあるものの、苦難のしもべが、多くの人を義とするために彼らの罪を背負ったという肝心な点にちがいはない。そう。これこそ肝心な点。