苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ある姉妹のお葬式

 昨日は、教会のメンバーである女性Mさんのお葬式がありました。Mさんは若い日に牧師であるお父さんから洗礼を受けましたが、ご本人にとっては半ば強制的だったという気持ちがあり、数十年にわたって教会から離れて生活をしていらっしゃいました。でも4年前に重い病を得てから、神様に心の扉を開くようになり、私は3年前からMさんを病床に訪問するようになりました。
 Mさんは、「神様のことを知っていながらずっと背を向けてきた自分のような者が、神様に赦され神様の子どもにしていただく資格はあるのでしょうか。」と何度も問われました。ちょうど、ルカ伝15章のあの弟息子が父の許に帰った時、「私には子と呼ばれる資格はありません。」と言ったように。
 でも、あの父親は息子が出奔してから、ずっと待ち続けていました。そして、彼が帰ってくるといの一番に見つけて駆け寄り、抱きしめて、接吻してやみませんでした。息子の手に子としての証として指輪をはめてやりました。そして祝宴を始めました。神の愛は、そのような愛です。何度もこのことをお話ししました。召される二週間前、Mさんは、「罪ゆるされたことで十分です。」とにっこりされました。
 お葬式には、40名の方たちが集いました。そのとき、上のことをお話しました。今回、私は、最後の「『さあ、祝おうではないか。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。」ということばに捕らえられました。ああ、地上では別れの涙を絞っていても、あちらではMさんを歓迎する祝宴が開かれているのだ、と。
  昨日夕方6時、お葬式すべてがおわって帰宅しました。夕食後、腰が痛いので、船着き場まで夜の散歩をして治療。このところちょっと忙しすぎて、散歩する時間を作れなかったら、てきめんです。シップをはって寝たら、今朝は、だいぶ良くなっています。
 苫小牧には、こないだの日曜日からようやく夏が来ました。
きょう、8月になりましたね。さすがにくたびれて、午前中2時間ほどぼーっとして、それから次の主の日の準備をして、お昼は愛妻弁当です。