苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

洗礼への主の導き

 昨日、今年最後の主日礼拝で、70代半ばのSさんという男性と、40代後半のKさんという男性が、父子聖霊の名によって、洗礼を受けられました。
 Sさんは、キリスト教と縁がなく真の神様を知らずにずっと生きて来られました。いろいろな仕事をしてこられた方ですが、パーキンソン病というのになられて、以前からの友人にさそわれて教会に来られるようになり、また、個人的にも牧師と聖書を学ぶようになって、確信にいたられました。洗礼式で当たり、「聖書は、私たち人間には罪があると教えていますが、Sさんはご自分の罪のなかで最も大きな罪だと自覚したのは、どういうことですか?」とうかがったら、「それは、信仰を持たなかったことです。自力で生きていけると考えて、神様を無視して生きて来たこと、それが罪でしたという答えをなさいました。しっかりと、罪の核心を自覚されたのだと思いました。

 Kさんは、ある意味対照的で、熊本県でクリスチャン家庭に生まれ、物心ついたころには教会生活をしており、少年時代・青年時代はずっと教会生活をしていたそうです。しかし、就職してからは仕事仕事で明け暮れて、教会生活から遠ざかって長い年月がたってしまいました。しかし、二年前に苫小牧に来られ、敬虔なお母さんが教会に先に来られました。ある日曜日の朝、「礼拝に行きたいので、車で送ってちょうだい」と言われて、「『どうして礼拝にいっしょに行こう』って言わないの?ぼくも礼拝に行くよ。」と答えたそうです。そうしたら、お母さんが驚かれたそうです。その表情を見て、「ああ、自分はクリスチャンのつもりでいたけれど、母から見たら自分はクリスチャンではなかったのか。」と衝撃を受けたそうです。 そうして久しぶりに参加した苫小牧の教会は、久しぶりでなく、ずっと前からきていたような感覚を得られたそうです。その後、二年間かけて確信にいたられて、洗礼を受けられました。

 それぞれの人生に対する主のお導きを感じたことです。またお二人が、主のもとに帰って来るために、どれほど多くの兄弟姉妹たちの祈りがあったことだろうかと思い、感謝します。Kさんに関しては、彼のために熊本の教会の教会学校の先生たち、牧師さんがどれほど心砕いて祈られたことか、と思います。感謝なことです。