苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ドイツ人の魂

小塩 節先生の「人の望みの喜びを」から。

さて、その直後ミュンヒェンにもどり、日本から訪ねてきたある知人の頼みで、プロテスタント教会の日曜日の夕拝に出かけた。夕拝を守るところは少ない。やっと探しあてたのは人影もない裏通りの、ふつうの建物の中での集会であった。
 
 二部屋をぶちぬいた小さな集会所は、もういっぱいの人だった。かなり遅れて着いた私たちは、半開きのドアの外の壁によりかかって、もうはじまっていた説教を聞いた。木目の荒い机が床の上にひとつ。その上に二本のロウソクと一冊の聖書があるだけ。その前に立って話しているのは、ドイツの教会では珍しいことに黒ガウンの聖職者でなくて、背広姿の大学教授ふうの銀髪の人である。
 
 その人の静かなことばを一句も聞きのがすまいとするように、集会所いっぱいの人は息をのんで聴いている。針一本落ちても聞こえるような静けさである。
 
 アメリカのニグロ問題の困難とキリスト者の責任を訴えたあと、こう話しつづけた。
「わたしたちは六百万人のユダヤ人をガス室に送りこんだ。そのうえ何百万人もの東欧の無辜(むこ)の民を殺した。このわたしの手は、あの人たちの血で、血塗られている---」
 シェイクスピアマクベス夫人が主人公殺しをしたあと、いくら手を洗っても手についた血がおちない。「血、ブラッド」と叫ぶマクベス夫人の声を思い出し、また、ついさっき見てきたばかりのダッハウのほの暗いガス室の、さびの出た鉄のドアと巨大な鉄製の焼き窯を思い出して、私は思わずウッとこみあげる吐き気をおさえた。
 
 その銀髪の人は、選ばれた民と自ら誇るときに、個人も民族もおそるペき罪を犯しているのだ、と淡々たる口調で語っていた。エリート意識の中にひそむ巨大な傲慢の罪。それは信仰者にもある。ほんとうの信仰は、自分が罪人であると神の前に立ってゆるしを求めるものでしかない。立派な行いすました信仰者に、恐ろしい傲慢の罪がひそむ。
 
 説教のあとはお祈りだった。私は幼いときの日曜学校で、一度やって見つかり、しかられたことがあったのだが、お祈りの最中に目をあけて見てしまった。どんなかっこうでお祈りしているのかしらん、と思って。すると、その説教者は目から涙を流しているではないか。
 
 お祈りは短かった。彼は、こう祈っていた。そのドイツ語を、私は今もはっきり覚えている。
 
「神よ、わたしたちは罪にまみれています。あなたに対し、世界に対して、わたしたちは罪を犯しました。神よ、われ信ず、信なきわれを助けたまえ。Rettemich,der ich ohne Glaubenbin」
 お祈りのあと、頭を垂れ、目をおさえたままの人が何人もあった。
---この自分が罪を犯した、と語っていたその銀髪の人は、ハノーファーの学校の先生で、
学生時代にナチに抵抗運動を試みて捕えられ、ダッハウにつながれた人だった。腕のワイシャツをめくれば囚人番号のイレズミがあるそうだ。もしアメリカ軍の侵攻が一過間遅れたら、生きては出てこなかったろう---。
 そういう話を別の人から聞いた。本人はそんなことはひとこともいわなかった。ああ、私だったら、抵抗のことを、そしてダッハウでひどいめにあったことを声高く語ったことだろう。日本的な被害者意識をふりかざしたことだろう。
 
 しかし、この人は静かに、自分が加害者ドイツ人のひとりであることを会衆とともに神にわび、救いを祈っていた。自ら生命を投げ出した真の闘士であったから、できるのだ。 ドイツ・キリスト者の根性が、ここにあった。これこそほんとうの勇気である。
 私は自分自身が恥ずかしかった。1960年当時、日本では戦争責任を告白する動きはまだなかった。ずっと後になって宗教界でその動きが出てきたとき、それは多少とも他人を糾弾する形で行われ、主体的な自己の責任告白とは遠いものになっていった。
 
 ---その夜、私は目からうろこの落ちるような思いがした。そしてその後、ドイツの各地にこの説教者のように、悪に対して身を挺して関ったがゆえに罪の連帯責任を言い表わし、祖国の精神的復興のために働く人びとを何人もこの目で見た。
 
 ドイツ人は大きな罪を犯した。しかしそれへの抵抗も、そしてまた神と人とに対して罪を告白してわびる心も大きい。これがドイツ人の魂なのであった。