新改訳2017 ガラテヤ4:1−10 の翻訳についてメモ
「1,つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、2父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。3,同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。4,しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。5,それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。6,そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。7,ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。8,あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。9,しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。10,あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。」(ガラテヤ4:1−10)
新改訳第三版までは、stoikeiaは「幼稚な教え」と訳されていたのに、2017では「もろもろの霊」と訳し変えられてしまった。文語訳聖書は第三版と同じ趣旨で「小学」と訳しているが、新共同訳、口語訳、ほかの多くの英訳が「霊」とか「霊力」と訳しているので、それらに倣ったのであろう。だが、これは不適切な訳であると思われる。
stoikeiaということばは、「元素」「原則」、もっとも基本的なものということで、いろは、ABCつまり「幼稚な教え」という訳語がある。では、どれがこの文脈では適切な訳語であろうか。
文脈としては、
1−7節。まず主語「私たち」はパウロをふくむユダヤ人のことであること。次に、「私たち」はstoikeiaの下にあり、律法の下にあったこと。そして、キリストが律法の下から「私たち」を救って、子=相続人とする御霊を受けたこと。
8ー10節。主語「あなたがた」異邦人は、まことの神を知らぬときは、神々の奴隷であった。キリストを信じて、まことの神を知るようになり、神に知られるようになったのに、今、またstoikeiaの奴隷になっている。それはすなわち「各種の日と月と季節と年を守る」ことを意味する。
こうしてみると、stoikeiaの下にあるということは、ユダヤ人が律法の下にあったこと、および、各種の日と月と季節と年を守ることと同義である。したがって、stoikeiaはユダヤ教における諸規定を意味していると解するのが適切であり、したがって、「幼稚な教え」(新改訳第三版)「小学』(文語訳)が適訳であることがわかる。残念ながら2017の「もろもろの霊」は的外れな訳語である。