苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

牧会者の二側面

2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。 2:5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。 2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。 2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(1テサロニケ2:4−8)

 牧会者は人を喜ばせようとしてでなく、神を喜ばせようとしてみことばを語る。彼は神の国の大使であるから、本国の意思を正確に伝えることこそ任務である。人間のご機嫌をとって、神の意思に反することを教える牧会者は偽教師となってしまう。
 だが、牧会者は神の国の大使としての権威をふりまわすのでなく、兄弟姉妹に仕える優しい心をもっていることが大切である。神の福音だけでなく、いのちまでも兄弟姉妹に与える心をもってこそ、神の福音は兄弟姉妹の心に届くだろう。
 神に立てられた牧会者は、このように一見、相反する二つの心の態度を堅持する必要がある。人間を喜ばせるのでなく神を喜ばせるために、福音の真理を決して曲げないこと。しかし、権威を振りかざすのでなく、兄弟姉妹を愛し仕える心をもって、その奉仕にあたることである。
 それは、主イエス・キリストのうちに見られることである。御子は尊い神のひとり子として一切の権威をもっていらっしゃるが、その権威をふりかざすのでなく家畜小屋を産屋として選び、貧しきうれい、生きる悩みのすべてをなめ、友なき者の友となり、最後には友のため十字架の死にまでもしたがわれた。

 昨日、家内と波止場に散歩したらウミネコの幼鳥がいました。9月になって親たちはみな岩手か函館に引っ越してしまったのですが、取り残されたみたいです。だいじょうぶかな。