第一コリント書8章、10章
1.コリント教会の人々が直面していた問題の一つに、「偶像にささげられた肉を食べてよいのか?悪いのか?」ということがあった。偶像崇拝が罪であることは、議論の余地がない。相手がゼウス像であれ、アルテミス像であれ、ローマ皇帝像であれ、仏像であれ、ホニャララ神社であれ、それらに捧げ物をし、香を焚き、手を合わせ拝礼することは、キリスト者にとって唯一の真の神の前に罪である。黒である。しかし、これら偶像の神々の像の前にささげられた肉や饅頭を食べることは、偶像礼拝罪にあたるかどうかについては、微妙ないわば灰色問題だった。
パウロは、自分自身に関して言えば、偶像にささげられた肉を食べても、なんら良心の呵責は感じなかった。唯一の神以外には神は存在しないと知っているからである。彼の良心にとってはこれは白だった。
だが、幼い日から偶像礼拝を熱心に行い、そこから取り下げた肉を食べることを「ゼウス様と交わるありがたい礼拝行為」であると思ってきたコリント教会の人々にとっては、偶像にささげられた肉を食べるという行為は偶像礼拝にあたると良心の呵責を感じないではいられなかった。彼らにとって、これは黒だった。無理もないことである。
そこで、パウロは、自分の良心のためでなく、そういう兄弟姉妹の繊細な良心のためには自分も偶像にささげられたという肉は食べないことにするという。キリスト者は、自分ひとり神の前に生きるのではなく、主にある兄弟姉妹とともに神の前に生きるのである。
2.一般化すると、キリスト者にとっては、明白に罪であることと、明白に罪でないことと、罪か罪でないか微妙なこととがある。これが灰色問題である。灰色問題のばあいには、自分の良心に照らして呵責がなければ、神の前で罪ではないからそれを行えばよいが、自分の良心に照らして呵責を感じるならばそれは避けるべきである。基本的に、それぞれ確信するところにしたがって行動すべきであって、互いに裁きあうべきではない。だが、もう一つ配慮すべきは、自分だけでなくキリスト者の友の良心である。(ほかに関連ある聖書箇所はローマ書14章)