創世記1章1−2章3節
神様はご自分の作品である世界を配慮し、導かれます。これを神学のことばで摂理といいます。配剤、配慮、按配などと訳せることばです。創世記1章には、神ご自身と神が造られた世界の構造があきらかにされています。神のご摂理をわきまえて私たちが生きるために、これを知ることは有効なことです。3点学びたいと思います。
1.保持・・・御子が世界の存在を支えている
第一にわきまえるべきことは、御子がこの世界を無から創造され、父なる神の御旨にしたがって、御子が万物を支えていらっしゃいるということです。最後の審判の日、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくな」る日が来ます(黙示20:11)。御子が意志するかぎりにおいて、世界は存在しているのです。このことについて、そしてコロサイ書1章15−17節が教えています。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
この世界は有限なものであって、ただ御子イエスが許しているかぎり存在しているのです。御子の作品として、この世界の山や川や動植物はすばらしいものですが、これらを神格化して拝むことは愚かな偶像礼拝です。
2.世界は、多様性と統一性を帯びている
三位一体の神が造られたこの世界は、実に、多様な被造物から成っています。動植物の創造にかんして「種類にしたがって」と繰り返し記されています。私たちの住む北海道はこれから待ちに待った春が訪れて、次々に花々が咲き始めます。フクジュソウ、フキノトウに始まって、オオイヌノフグリとかナズナ、ツクシ、スイセン、クロッカス、チューリップとさまざまの花が咲き乱れます。実に多様で豊かです。
しかも、創世記1章に記されるさまざまな被造物、光・大気・水・大地・月星太陽の営み・動植物そして人間はバラバラに存在しているわけではなく、互いに助け合い、全体的な一致、調和をもって営まれ、生かされています。一粒のイチゴにしても、イチゴが光合成をしているというだけのことでなく、マクロの次元では地球の公転と自転、ミクロの次元では土の中の微生物たちの営みがあって、実るというふうに、宇宙全体が総動員されているのです。数え切れないほど多様な被造物が、統一的な働きをして、この世界は成り立っています。これはすべて、神のはかり知りがたい知恵の摂理によることです。
多様性と統一性の両立しているところにのみ、豊かな意味が存在します。この原則は、ありとあらゆる存在に適用されるものです。例えば、お料理ひとつ取ってみても、多様な食材がそれぞれの味わい、歯ごたえ、のど越し、香り、色彩をもっていて、それらが全体として調和して一つのおいしい料理というものができるでしょう。たとえ高級な食材であっても、一種類だけならば、そこに素晴らしい料理はありません。どんなにクロマグロのトロがおいしいと言っても、「へい、お待ちどう!」とか言って、お皿に山盛り3キログラム、クロマグロの大トロのみが載せられたら、げっそりしてしまうでしょう。統一性だけで、多様性がないからです。
でも、あれやこれや山海の珍味の多様な食材があっても、その多様性を一つの料理にまとめあげる調理師の発想と腕がなければ、そこに豊かなご馳走はあらわれないでしょう。
また、社会のあり方を考えてみると、全体主義というものがあります。これは統一性のみを偏重した社会のあり方です。一人ひとりの思想信条の自由を無視して、国家こそが全国民の生きる目的であり、いのちをささげるに値するものであるという一種の偶像崇拝です。他方、その反対が利己主義です。これは自己の主張、自己の利益のみを偏重して、隣人のことを考えようとしない態度を意味しています。全体だけを強調すると、個の意味が失われてしまいます。個だけを強調すると世界はばらばらに断片化して、これも意味が失われてしまいます。個と全体、いいかえると、多様性と統一性、この両方があって世界は豊かな意味があるのです。三位一体の神様の造られた世界だからです。
3.歴史性
神が創造し、摂理する世界のもう一つの知るべき特徴は、歴史性ということです。創世記1章は、この世界の歴史性・時間性ということについて、2つの大事なことを教えています。
(1)始まりと終わりがある・・・線分的歴史観
第一は世界には始まりがあり、終わりがあるという事実です。聖書を知らなかったギリシャやインドといった世界では歴史というものが意識されていませんでした。どちらも、時間を円環の永遠として考えていたといわれます。円環ですから始まりもなければ終わりもなく、同じことの繰り返しなのだというのです。円環の上には特定の点が存在しませんから、今日という日は特別な意味のある日ではないということになります。始まりもなく終わりもなく、ただ繰り返されるということなら、日々はむなしいことになります。伝道者の書の冒頭にこんな不思議なことばがあります。
1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。
しかし地はいつまでも変わらない。
1:5 日は上り、日は沈み、
またもとの上る所に帰って行く。
1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。
巡り巡って風は吹く。
しかし、その巡る道に風は帰る。
1:7 川はみな海に流れ込むが、
海は満ちることがない。
川は流れ込む所に、また流れる。
1:8 すべての事はものうい。
人は語ることさえできない。
目は見て飽きることもなく、
耳は聞いて満ち足りることもない。
1:9 昔あったものは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
しかし、創世記は世界には始まりがあったと教えています。そして、黙示録はその歴史には最後の審判があって終わり、次の時代が来ると教えています。つまり、円環ではなく一つの線分としての歴史観が聖書の歴史観です。一つの線分の上では、すべての点は特定の点です。そのように線分的歴史観においては、2016年4月10日という「今日」という日は二度とやってくることのない特別な日です。だから、今日という日を大事に生きなければなりません。今日の出会いを大切にしなければなりません。今日でなければ聞くことのできない御言葉をしっかりと聞くことです。今日でなければ、言えないことを今日言うことです。さもないと「こんなひとこと、あの時、言えばよかった〜♪」ということになります。
また、神はこの世界を、「世界あれ」とおっしゃって1度に造らないで、「夕があり朝があった」と繰り返して7日にわけて造られました。全能の神の力をもってすれば、もちろんこの世界を、「世界あれ」とおっしゃって一瞬のうちに造ることもおできになったのですが、神様は、1日目に光、2日目には大気と上の水と下の水つまり海、3日目には陸地と植物、4日目には月星太陽、5日目には海の生き物と空飛ぶ生き物、そして、6日目には陸上の動物と人間を造られたのです。一日目と二日目を入れ替えることはできません。三日目と五日目を入れ替えることはできません。それぞれの日には、それぞれに特有の意味があるからです。世界には始まりがあり、終わりがある。したがって、神の摂理するときの中で、2016年という年は一回限り、また、今日という日は一回限りです。ピリリとした緊張感をもって、この主が造られた日を大事に生きなければなりません。
(2)繰り返しつつ終末に向かって前進する
創世記1章が時について教えている第二のことは、時は始まりと終わりがあるのですが、それは単純な直線ではなくて、繰り返しつつ前進するつまり螺旋的な構造をしているということです。それは、神様が月と太陽と地球の回転に時の管理を委ねられたことから来ています。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。 1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
一週間の始まりの主の日、私たちは神様の前に新しい気持ちになって、「先週は過ちを犯したけれど、よし今週こそ」と悔い改めて、やり直すことが許されています。失敗しても、主の日を迎えて悔い改めて再出発するということを繰り返しつつ、前に少しずつ進んでいきます。それが一ヶ月という単位、1年という単位でもそうです。
たしかに2016年という年は、主イエスが治めておられるこの歴史において、ただ一度しかない年です。また、今日というのもまた歴史のなかでただ一度かぎりの一日なのです。そのことを覚えれば厳しい緊張感をもって、この日を無駄にせぬように、この1年を無駄にせぬようにすごさねばなりません。あなたの人生においても、この日は、ただ一度きりです。一日一日、主イエスにお目にかかる日が近づいています。しかし、一日を失敗して終わってしまったとき、一晩休んで目を覚ましたとき、「いざ、もう一度」とやり直すことが許されている。悔いの多い一年であったとしても、新しい年を迎えて、今年こそとやり直すことを主は許していてくださるのです。ピリリとした厳しさとともに、失敗したなら悔い改めてやり直せばよいとおっしゃる主の慈しみを覚えます。「見よ。神のいつくしみと厳しさを!」
まとめ
私たちは有限な人間であり、その知性も有限なものですから、神様の摂理のすべてを理解できるわけではありません。けれども、神様が教えようとしていらっしゃるところまでは知ることができますし、知るべきです。
三位一体の神様の造られた世界そして、私たちの人生は、多様にして統一的な世界であり人生であることを学びました。私たちは多様性と統一性の両立ということのたいせつさを、教会生活でも、日常生活の営みにおいても弁えて生きてゆきたいと思います。多様性を重んじるとは、隣人が自分とは異なる個性をもつことを尊ぶことです。また、人と比べないで自分なりに神を見上げて生きていくことです。他方、統一性を重んじるとは、自己主張ばかりせずに、ともに生きることを志すことです。
しかも、この世界は歴史的世界であり、私たちの人生もまた歴史的なものです。人生には始まりがあり、終わりがあります。今日という日は二度と来ないという緊張感、しかし、失敗したらもう一度やり直しなさいという慰めに満ちた、神のご支配の下における人生です。