マルコ14:63−65
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。
主イエスの死は私たち罪ある者の代償である。それゆえに、その死は自然死ではなく処刑によるものでなければならなかった。それにしても、主イエスの死はどうして、あれほどの辱めを伴うものでなければならなかったのだろうと、数年前から考えている。釈迦は、高弟たちに取り囲まれて「自己灯明。自己灯明。」と最後まで教えを垂れつつ死んだ。ソクラテスはポリス市民たちの愚劣な裁判による死刑判決によるものではあったが、自ら毒杯を仰ぐという、哲学者としての尊厳を感じさせる従容たる死だった。だが、イエスは辱めのかぎりを尽くされた死であった。主イエスの処刑死の特徴は、その辱めであった。恐らくその辱めは、私たちの罪の本質が高慢であることと関係しているのだろう。高慢という罪の償いとしての辱めであったのではなかろうか。