苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン8月11日  みことばは親に、子に

 ローズンゲンメモ。出かけておりまして2日間あきました。

申命記4章10節
モーセへの主の言葉:
口語訳
民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう


新改訳
民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。


新共同訳
民を集めなさい。私の言葉を聞かせ、彼らが地上に生きる限り、私を畏れる事を学び、又それを子らに教える事ができるようにしよう。

 翻訳にさしたる異同なし。文字についてだけ、以前も書いた「恐れ」と「畏れ」のちがいあり。文科省のきまぐれの当用漢字などあまり気にする必要はないのではないか、と思ったりする。
 さて、要点は、主のことばは神の民に教えられ、神の民はわが子にそれを教えるようにと与えられているということである。親はみことばを子に伝える義務がある。「信教の自由があるから、わたしの幼い子どもにはキリスト信仰を教えません」という親が時々いるが、これは変な話。第一に、「信教の自由」とは、国教からの自由を意味するものであるから。日本国憲法制定の歴史的文脈でいえば、憲法は政府に対して、「国民に国家神道を強要してはならないと」縛っているのである。第二に、子どもにキリスト信仰を伝えないならば、その子は白紙の状態でいられるのかというと、そんなことはないからである。毎日毎日、テレビでも学校でも無神論的で物質主義的なこの世の価値観の洪水のなかに置かれているのである。
 神はみことばを親に、そして、子に対して与えてくださった。
 一昨日、昨日、鴻巣の教会の修養会の奉仕にでかけて、子どもたちへの信仰継承がよくなされていることに感心した。