苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イエスの顔は四百九十回まで

マタイ18章21-35節


1 七を七十倍

 失われた羊をさがす羊飼いの話を聞き、兄弟が罪を犯したときの戒規の問題について話されたとき、シモン・ペテロが、「ではどれほど赦せばいいのでしょう?」とイエス様に質問をします。18:21「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 日本では「仏の顔も三度まで」などといいます。シモン・ペテロは「七度まで」と言って、きっと俺はたいした広い心だと思ったのでしょう。ところが、なんとイエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」とおっしゃいます。「ヨーシ491回目こそ」と思ってはいけません。490回というのは、もちろん「ごめんなさいと言うならば、何度でも赦してやりなさい」という意味です。

 でも、みなさんどうでしょうか?イエス様のおっしゃることはちょっと無茶な話ではないでしょうか?そんなに何度でも赦してやるということならば、相手は図に乗って、平気で同じ悪いことをするようになってしまうのではないでしょうか。「仏の顔も三度まで」はクリスチャンとしては少ないとしても、ペテロがいうように「キリストの顔も七度まで」くらいが穏当なのではないでしょうか?・・・社会常識をわきまえて考えると、そんなふうに思えるのではないでしょうか。
 ペテロもきっと、イエス様の「七を七十倍」というお答えを聞いて、不満げな顔をしていたのだろうと思います。「そりゃ、イエス様いくらなんでも納得できませんね。」という顔をしていたのでしょう。


2 たとえ話

 そこで、イエス様はひとつ天の御国の譬えを話されます。

18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。
 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

 1万タラントという金額は、莫大な金額です。1タラントは数千デナリで、1デナリが1日の賃金ということですですから、1万タラントは数億円から十数億円という莫大なお金にあたります。王様はお金持ちですし、また、このしもべはとんでもないほどの借金を王に対してしたものです。
 王は、しもべに自分の家屋敷を売り払い、自分も妻も奴隷奉公に出て返済せよと命じます。けれども、しもべは、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」とひれ伏して泣きついたのです。しかし、このしもべが言っていることは、ほとんど苦し紛れのことばにすぎないことは見え透いています。十数億もの借金をどうやって全部返すことができるでしょう。けれども、王はしもべが泣きつくので、かわいそうになってしまって、彼を赦して十数億の借金を免除してやるのです。まあ、なんとお人よしの王様でしょう。

 王は聖なる審判者である神のことを指しています。では、王に対して莫大な借金をしているしもべとは誰のことでしょう。あなたのこと、私のことを指しています。私たちは、ほとんど実感していないのですが、実際には、聖なる裁き主である神に対してとんでもなく莫大な借財を負っているものです。
 十戒に自分自身を照らしてみるとどうでしょうか。
 第一「あなたには私のほかに他の神々があってはならない。」異邦人として生まれ、偶像崇拝をしてきた人たちはみな、この罪を犯しています。また、あからさまが偶像ではないとしても、あなたの生活の中に真の神様以上に大切にしているものがあるとすれば、それは偶像崇拝です。
 第二「あなたは、自分のために偶像を作ってはならない。拝んではならない。仕えてはならない。」 これは真の神様を礼拝するにあたって、偶像を作るな、使うなということです。
 第三「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない」「イエス様」「神様」と主の御名を呼ぶときには、神を恐れる敬虔な心をもって呼ぶべきであって、軽々しく神様のことを口にしてはならないということです。神の名によって軽々しく誓うというのも、そうです。
 第四「安息日をおぼえて、これを聖なる日とせよ。」安息日は、神様への愛として礼拝をささげ、隣人愛をとくに表す日として過ごすのです。
 第五「あなたの父母を敬え。」旧約の律法には「父母をのろうものは死刑」「父母を打つものは死刑」とありました。
 第六「殺してはならない。」憎しみ、殺意もまたこころまでごらんになる、聖なる神様の前では燃えるゲヘナに相当する人殺しです。
 第七「姦淫してはならない。」姦淫とは既婚者が配偶者以外の異性と性的関係を結ぶことを意味します。旧約時代は石打ちによる死刑でした。
 第八「盗んではならない。」神様の前では、百万円でも、10万円でも、1000円でも、100円でも盗みは盗みです。
 第九「あなたは隣人に対して偽証をしてはならない。」嘘をついてはならないというのです。
 第十「あなたは隣人のものを欲しがってはならない。」隣人の幸せを妬むなということです。さらに、第十の戒めは、神様は私たちの内心の「欲しがる」という動きまでもご存知でいらして、それをさばきたまうお方であるということに気づくでしょう。具体的に人殺しをせずとも、心の中に憎しみを抱くならば、それは「殺してはならない」という戒めに対する違反です。たとえ「姦淫してはならない」という戒めを、具体的な行動としては守っていたとしても、心の中までも神様にのぞまかれても大丈夫だといえる人がどれだけいるでしょうか。「盗んではならない」「偽証してはならない」などという戒めをを、神様が私たちの心の中までもご存知で、さばき給うお方であるということを認識すれば、私たちは自分が、神様に対して日々借金を負い続けているのだという事実に愕然とするでしょう。


3 不公平な私たち

 さて、たとえ話に戻ります。

18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。

 このしもべは、王様から1万タラント、十数億円にも上る借金を免除してもらいました。ルンルン気分で家に帰る途中のことでした。知り合いにばったりと会いました。相手は、挨拶をしてささっと逃げるように去ろうとしたのですが、しもべはかれをとっ捕まえて言いました。「おい借金百デナリ、貸したままになっていたね。耳をそろえて返してもらおうか。」百デナリというのは、数十万円くらいでしょう。でも、相手は数十万円返すことができる状況ではありませんでした。生活に困っていたのです。・・・そうして、「もう少し待ってください。返しますから。」としもべの前にひれ伏して、泣きついたのです。
 しかし、しもべは容赦せずに連れて行って彼を牢にぶちこんだのです。牢にぶちこんでしまわれたら、どのようにして借金を返せるのかはよくわかりません。強制労働について、その労賃が貸主の彼のところに入るのでしょうか??
 それはともかくとして、この譬えはなにを意味しているのでしょう。それは、私たちは自分に対しては非常に甘く、隣人に対しては不当なばかりに辛い基準でさばくということを意味しています。自分の十数億円の借財については、様々な事情があってやむをえないことであり、赦してもらうべきことだけれども、他人が自分に対してした借金数十万円は、返さないのは不当なことであり、不誠実なことであり、牢屋にぶち込まれて当然のことであるというふうに感じるものなのです。 人を量る物差しと、自分を量る物差しが違っているのです。
夫や妻や子どもや友だちの目に入っている塵のことは良く見えて、気になって仕方ないのですが、自分の目に丸太が突き刺さっていることにはまったく気づかないのです。


4 公平な神

 さて、たとえ話の続きです。

  18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 この王は、彼が仲間を量った、その物差しでしもべを量りなおすことにしたのでした。まことに公平な王です。けれども、神様は公平なかたです。「あなたが他人を量るその物差しで、あなたを計りましょう」とおっしゃるのです。ヤコブ書に次のようにあります。

「2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 罪は悔い改めることが必要です。ですが、悔い改めた人は、何度でも赦すことがたいせつです。私たちも、数限りなく主にゆるしていただきました。


結び 後日ペテロは

 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」という質問に始まって、イエス様はこのように大切な話をなさいました。
「ペテロ、君は七を七十倍するほど赦してやれというわたしのことばに対して、納得ゆかないような顔をしているけれど、君自身が、神の前でどれほど大きな罪を赦されたかということ忘れているのではないかな。」
 後日、ペテロは、イエス様が大祭司カヤパの官邸で深夜、裁きを受けたとき、そこに忍び込んで、他の人々と焚き火に当たりながら、その成り行きを見ることになりました。そのとき、「おまえはあのイエスの弟子だろう?」と問い詰められて、彼は「おれはイエスのことなど知らない」と三度、イエス様のことを否定するという罪を犯しました。「人の前でわたしのことを知らないという者は、わたしが戻ってきた最後の審判の日には、そんな人のことは知らないという」と主イエスがおっしゃったことを思えば、イエス様のことを三度も否定したというのは、本当に恐ろしい罪だったのです。もう赦されないほどの、永遠のゲヘナに投げ込まれてしまうほどの罪でした。ペテロはきっと、後日思ったでしょう。主イエスが、「七を七十倍」するほどの寛容さで私を扱ってくださったからこそ、私は赦されて、主の弟子としてとどまることが出来ているのだ、と。