「面子」にこだわればこだわるほど、世界からますます軽蔑されて、「名誉」を失っているというのに、まるで気づかない。日本は、今、従軍慰安婦問題に関して、まさにこういうばかげた状況に陥っているのではなかろうか。山崎さんという方、すごい慧眼。
山崎 雅弘 @mas__yamazaki 13時間
実質としての「国の名誉」が日々失われていることに憂慮する日本人は少なくないが、形式としての「国の面子」にしか関心のない人には、前者の人間に見えている破壊が全く見えない。自国の失敗や瑕疵を認めて「他国、特に自分が見下している国から見下される」不安から「国の名誉」をさらに壊し続ける。
政府と国民が「名誉」と「面子」を取り違え、ひたすら「面子」に固執した結果、この国は1945年8月に破滅の瀬戸際へと追いやられた。本物の「愛国者」は、その状況を「二度と繰り返してはならない」という点から思考を始めるが、「面子」にこだわる「偽の愛国者」は、逆にそれを繰り返そうとする。
この先、政治家や新聞、政府に近い人間が「名誉」という言葉で思考や行動を誘導・制約する動きが増えていくと思うが、美麗な語句に惑わされて「名誉」と「面子」を取り違えたまま暴走すれば国が滅ぶことを、先人は自分たちの命と引き換えに教えてくれている。彼ら彼女らの犠牲を無駄にしてはいけない。
「名誉」でなく「面子」にこだわる人間は、交渉では「実質的勝利」でなく「形式的勝利」を求めるので、名を捨てて実を取るという「譲歩」を行えない。「面子」にこだわる人間は「形式」に思考を支配されているので、名と実の違いすら認識できない。失敗するとわかっていても、他の方法を選択できない。
先の戦争における敗戦と膨大な犠牲は、政府と国民が「名誉」と「面子」を取り違えて、ひたすら「面子」に固執した結果だったと思う。国際連盟脱退も、日中戦争解決の失敗も、敗北確実な対米英蘭戦の開始も、面子に固執せず譲歩すれば避けられたが、それができずに日本軍人だけで230万人が死亡した。
「名誉」と「面子」の取り違えは、捕虜の扱いにも見られる。実質の「名誉」を重視していた日清・日露戦争の日本軍は、捕虜を不名誉とは考えず敵の捕虜にも敬意を払ったが、昭和の日本軍は捕虜になれば「面子が潰れる」と考えて厳禁し、敵捕虜も虐待して、大勢の日本軍人が戦後に戦犯として処刑された。