苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮大工修行の「研ぎ」

 木をあつかう仕事に入ろうとすると、何が一番大事かというと「研ぎ」が大事だということです。どういうことかと思っていましたが、宮大工の西岡さん・小川さんの例の本を読んでいて、特に小川さんのことばにふーむと思っています。
「俺んところににはいろんな子が来るよ。落第生や暴走族、高校中退・・・そういう子がうちにはおさまるんだな、自然に。うちの子は、友達感覚で全部いられるやろ。だから、歪んだり、ゆがんだりしない。・・・歪みやなんかは刃物を研ぐとき、邪魔になるんだ。」p351
「ひとつは、大きい木に向かって長い時間をかけて仕事をする。すると、荒々しいとか、一丁、やってやろうとか、意気込みとか、そういうものだけではできないというのがわかってくるんだろうな。」p352
「研ぎものっていうのははっきりしている。荒々しいだけや力まかせじゃだめだということがわかるんだ。それじゃ切れないんだから。ほかの人との差が歴然と出るからな。
切れる研ぎというのもなかなかむずかしい。研ぎのすばらしさってあるんだ。きれいに研ぐというのも大事だ。しかし、現場では刃物は長く切れなくちゃならないという技術も大事だ。ちょっと節に当たったらパリッと刃が折れてしまうようではどうしようもないわけだ。」p353

心の癖が体の動きに現れて、研がれた刃物の切れ味と強さもろさに現れてくる。刃物を研ぐことに集中していくときに、それが自分で「体得」されていくというのです。かみそりのようにスパッと切れて、しかも、固い節に負けない強さをもつ刃物を研ぎ出すとき、研ぐ人のからだと心が修練されていく、と。

自分のからだでわかっていくこと。それがメタモルフォーゼにおいて、とても大事なんだということを職人の研ぎというのは教えているんでしょうね。

クリスチャンの聖化、成長においても、そうなのでしょう。みことば、みことばといいますけれど。そういう意味で、教会の奉仕やキャンプでの訓練が大事なのでしょうね。主イエスは弟子たちをことばだけでなく、朝から晩まで一緒に生活するなかで教えました。
 頭でっかちの自分は、若いときからそういうことが欠けて来たなあと今ごろになって感じています。