苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

二つの重要な経験

 宮大工の修行と人としての変容ということについて考えていて、とあるヨットスクールの本を思い出しました。生徒から死者を出してしまった事件でしたから、全否定ということですませるほうが無難なのかもしれませんが、私は、昔、氏が書いた『わたしが治す』という本を読む機会があって、次の一節が心に残りました。それは、「ヨットにおける教育は、陸上ではできない大事な点があるのだ」ということでした。
 その本によれば、ヨットスクールに来た問題ある子どもはみな、それまでの人生を現実から逃避して生きてきたのだといいます。そういう子どもたちがスクールに来ると、まず、黒板を背に一人乗りヨットの操作方法の説明をします。親にむりやりつれて来られた子どもたちですから、やる気なさそうにボーっとして聞いています。説明が終わると教師は「わかったか?」と質問します。子供たちは「はーい、わかりました〜」と生返事をします。
 教師は「では、これから君たちにヨットに乗ってもらう」と言います。そして、そのまま船に乗せて沖合いに出て、ライフジャケットを着せて一人乗りのヨットに乗せて海に下ろしてしまいます。当然、子どもたちは「どうやって操作したらいいかわからねえよ!」と泣き叫びますが、教師は「君たちは、さっき『わかった』と言っただろう。わかったなら自分で操作して岸まで帰って来い」と言って、ヨットと子どもたちを沖において船は帰ってきます。
 教師たちは、岸から双眼鏡で泣き叫びながら悪戦苦闘している子どもたちを見ていて、頃合を見計らって船で声をかけに行っては戻ってきて、最後に迎えに行きます。こうして「人の話をまじめに聞かず、わかってもいないのに、いい加減に『わかった』ということがどれほど危険で、いのちにかかわることか。」ということをわからせるというのです。そうして、言葉の重さ、ことばを発する責任ということを身に沁みさせるというのです。これが陸上なら、グランド10周とか言っても、歩いてごまかしてしまえますが、ヨットではごまかしようがないというわけです。
 自分のしたことが、ただちに歴然と結果として跳ね返ってくるということ。いい加減ではすまされないこと。からだを伴う経験であること。そういう点で、職人の研ぎに通じるものがあります。


 私が理解するかぎり、聖書によれば、人間のたましいの癒しに必要な経験は二つあって、ひとつは受容されるという経験であり、もうひとつは厳しく責任を問われる経験です。責任を問われるとき、人は自分は人格として尊重されるという経験をします。後者は自分のことばに責任をもって生きることによって、育っていきます。ヨットスクールの訓練は、この後者に当たる経験をさせているように思います。
 主イエスの十字架において、私たちはこの二つの経験をするのではないでしょうか。私たちは自分の罪がこれほどまでに重いものであるということを知り、かつ、その罪ある自分を赦し受け入れてくださる神の愛を知ります。
「見よ。神の慈しみと厳しさを。」

<追記>
 戸塚氏のばあい、「恐怖による支配」である点で、自律をうながすことにはならないのではないかという指摘をいただきました。たしかにそうかもしれません。ご指摘の意味は、恐怖による支配では、その施設・団体を出たら、またもとに戻るということでしょう。
 ただわたしが意義があると思うのは、上に書いた「療法」が、ウィリアム・グラッサーの現実療法に通じるものがあるという一点です。
 結論的には、恐怖ではなくて、受容された上で、現実にしっかり向き合うように育てられることが大事だということになるでしょう。