苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の国の奥義

マルコ4章1−20節
2016年7月31日

序 4章は1節から34節までは、神の国(天の御国)についての譬えが続いていきます。「国」と訳されることばは、バシレイアといいますが、バシレウスというのは王様のことですから、バシレイアは王国です。王国というのは、王様が支配者として支配している国。ですから、神の国ということは、神の支配する国のことです。今朝、私たちは「御国がきますように。」と祈りましたが、これは「神のご支配が来ますように」という意味です。つまり、続く「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と言う意味です。「私がわがままな心を捨てて、あなたに従うことができますように。」あるいは「不正に満ちたこの世界に、神様の正義のご支配が来ますように」という意味です。


1 奥義を明らかにしていただける時代

(1)たとえ話を悟らない人々
 イエス様はこの日、多くの群衆に押し迫ってきたので、彼らみなに声が届くために、小舟に乗って腰を下ろして、小舟から岸の群衆に向かってお話をなさいました。腰を下ろして話すというのは、当時の正式な教え方です。湖面を吹き渡るそよかぜにイエス様の声が運ばれて、湖畔に立つ群衆の耳に届くように配慮されたのです。まずは、種まきのたとえです。3節から9節。

4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

 なんで道端や岩地やいばらの中に種が落ちるのかといえば、イスラエルの当時の種まきは、日本みたいに畝に紐をひっぱって、いっかしょに三粒ずつといった緻密なものでなく、ミレーの「種まく人」みたいにザッバーと蒔くものなので、道端、岩地、いばらなんかに種が落ちたのです。その場にいて、この種まきの譬えを聞かされて解き明かされなかった人々は、どういう風にこれを理解したのでしょう。ある人は、「イエス様は大工さんなのに、農業指導員みたいな話をするなあ。」と思ったでしょう。ある人は「いったいイエス様は何を教えたいのだろうか?」と首をかしげながら帰ったことでしょう。多くの人たちにはこの譬えの意味はすぐにはわからなかったのです。
 譬え話というと、ふつうわかりにくいことをわかりやすくするためにするものだと考えますが、この譬えだけを聞かされたとしてもいったい何をイエス様が伝えようとなさっているかはわからなかったでしょう。これは神の王国の譬えですが、当時の多くのユダヤ人たちは「王国」と聞いて思い浮かべるのはかつて1000年ほど前にダビデやソロモンが王として支配していた時代のイスラエルの栄光の時代でした。ですから、彼らはイエス様に地上的な王国、憎きローマ帝国の軍隊を打ち破り、帝国のくびきからイスラエルを解放する強力な王様が出現して、繁栄する地上の王国を期待しました。
 ところが、イエス様のもたらす神の王国は、そういう軍事的方法で到来するものではなくて、私たちの心の中に始まって生き方に神を愛し隣人を愛するという変化をもたらし、家庭が変わり、職場が変わり、地域が変わり、社会が変わるというふうに浸透していくものでした。また、それはこの世で終わるものではなく、次の世にも永遠に続くものでした。軍事的・政治的革命を期待する人々には、イエス様のたとえ話は全く意味不明でした。
 十二弟子たちは不思議に思って、たとえをもって群衆にお話になるわけを、こっそりとイエス様にうかがいました(10節)。するとイエス様は、イザヤの預言を引用されて、次のように説明されました。

「4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。 4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」

 イザヤは、神様は心かたくなな人々には、その福音の真理を隠してしまわれるのだとおっしゃっているのです。実際、彼らのうちの多くの者たちはこれからしばらくのちに、この世の軍事的・政治的な王として立ち上がろうとせず、異邦人、ローマ人にも癒しを行ったりするイエス様に失望して、十字架にはりつけて殺してしまいます。

(2)真理を明らかにされる人々
 イエス様のたとえの意味する神の王国の真理を悟ることの許されることは決して当たり前のことではありません。マタイの平行記事に次のようにあります。

「 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」

 旧約時代には、信仰の父アブラハム、偉大な預言者モーセダビデ王、イザヤ、エリヤといったたくさんの敬虔な人々がおりました。そうした人々は、メシヤを待ち望み、その約束を与えられましたが、その成就を見ることはありませんでした。レストランのショーウィンドーで美味しそうなサンプルを見せられて、「あのお肉は、ほっぺが落ちるほどうまそうだね」とか説明された子どもが、「でも、やっぱり今日はこのまま帰ろう」と言われて親に連れて帰られたようなものです。
 しかし、神の御子が人となり救い主としておいでになった、今の時代の私たちは、偉大な預言者や義人たちが切望したそのメシヤを私の救い主として受け入れ味わうことができるのです。私たちはこの時代に生かされ、聖徒として召されたことはなんとありがたいことでしょうか。いくら感謝しても感謝し足りません。


2.種まきのたとえ

 さて、主イエスは種まきのたとえをもって、神の国の奥義を明らかにされます。それは、政治的・軍事的な行動によってではなく、福音の種が私たちひとりひとりのたましいに蒔かれることによって、芽を出し、花を咲かせて実を結び、さらに、私たちの周囲に広がっていくものなのです。それが神様の方法です。

「4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。 4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」


(1)まず種を蒔く
種とは御国のことば、キリストの教えです。実を結ぶ秘訣の第一は、みことばの種をまくことです。どんなに素晴らしい土壌でも、種をまかねば収穫はゼロです。ですから、みことばの種を、個人の生活において聖書を通読し続けることに励み、主の日、あるいはさまざまの集いでみことばを分かち合うことに励みましょう。また、この地域に福音の種をまきつづけましょう。種を蒔くのは良い地であるに越したことはありませんが、まずは、種を蒔くことが大事です。
 信州にいて、少し農業の真似事をしていたころ、お百姓さんに畑の土の造り方などを教えてくださいとお話しすると、お話の最後はかならず「とにかく、蒔いてみるだよ。」ということでした。蒔いてみるならば、出来不出来はあっても何か取れますが、理屈を言っているだけでは作物は決して出てきません。福音の種の蒔き方にもうまい下手がありましょうし、条件の違いもありますが、とにかくみことばの種を蒔くことがなにより大事なことです。

(2)道端
 第一の種は道端に落ちました。これは神のことばにまるで無関心な人、聞く耳のない人々でしょう。つまり、神様のことばが自分に関係があることを悟らず、自分の罪を認めず、悔い改めず、イエスを信じようとしない人です。そういう人の場合には、悪魔が来て、その人の心にまかれたみことばを奪っていってしまいます。「聖書は私とは関係ない」と思っているならば、悪魔がやって来て、その人の心からみことばを奪ってしまいます。
 聖書を読むとき、聖書の解き明かしを聞いているとき(今!)、このことばは神様が私に語っているのだという心構えて、心の耳をすませることが大事です。もしあなたが、最初から、神などいるものかと思いながら聖書をよんでも何も聞こえてきません。サタンがあなたの心からみことばを持ち去ってしまいます。

(3)砂の薄い岩地
第二は岩地にまかれた種です。一時的・感情的タイプのことです。

「4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、 4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」

岩地というのは、1センチか5ミリは少しばかり土があるけれど、その下は岩だという地面です。つまり、イエス様の話を聞いたら、一時的な感情で「信じます」と表明するのですが、すぐに醒めてしまうのです。映画館で感動して泣いたのに、映画館から出てきたら平気で笑っていられるみたいな感じでしょうか。感情というのは、熱しやすくさめやすいものです。イエス様の十字架の愛の話を聞いて感動して信じて受け入れる。けれども、イエス様を主として信じるということは、自分の十字架を負って、イエス様の後に従っていくことなのだということをわきまえていないので、イエス様を信じることのゆえに迫害や困難があると、さっさとイエス様のもとから逃げ出してしまう人です。
実を結ぶ信徒となるためには、イエス様を信じるとは、イエスを単に救い主としてでなく、わが人生の主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となってしたがうのだということをわきまえなければなりません。「あなたがたは、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ1:29)

(4)いばらの地
第三は、いばらの地タイプの人の心です。

「4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、 4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」

この人の心にまかれた種は、少しは芽を成長しますが、荊の方がもっと勢いが強いので、日が当たらなくなって結局結実にいたりません。いばらとは「この世の心遣いと富の惑わし」です。知り合いの宣教師が話していたことです。彼が東京で伝道していたとき、Kさんという人が、奥さんといっしょに教会に来るようになりました。当初喜んで聖書クラスなどにも出て洗礼も受けました。ところがある日、教会の修養会があったときのことです。Kさんは宣教師に「先生は富の誘惑に気をつけなさいとおっしゃいますが、わたしは必ず金持ちになって見せます」と豪語したそうです。どうも、宣教師が礼拝説教のなかで富の問題を指摘したことが、カチンときたようです。あのバブル時代のことです。Kさんは、やがて教会から足が遠のくようになり、なにか事業を起こし一時的には羽振りも良かったようですが、やがて事業も家庭も壊れてしまったそうです。今は、どうしているのでしょうか。主のもとに帰ってきているといいのですが。
私たちは、主のために実を結ぶ人生を送りたいならば、この世の誘惑、この時代、格別マモンの誘惑に警戒しなければなりません。イエス様によれば富はえてして神の代用品、偶像になるのです。お金は、私たちの人生の手段であって人生の目的ではありません。私たちの人生の目的は、「神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶ」ことのほかありません。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。

(5)良い地
そして、最後に第四は良い地にまかれる種は、豊かに結実します。

「4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

良い地の心とはどういう心でしょうか。
 第一に、みことばを聞いたならば、まず、私たちは、「これは私に語られる神様のおことばだ」と受け入れて聞くことです。「主よ、お語りください。しもべは聞いています。」という心で主のみことばを聞くことです。
 第二に、イエスを主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となって、自分の十字架を負ってイエス様にしたがうのだということをわきまえることです。
 第三に、あくまでもイエス様を主として、富の誘惑、この世の欲の誘惑に警戒することです。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。
 こうした心がけを実践するならば、ある人は百倍、ある人は六十倍、ある人は三十倍の実をむすんで、イエス様にご栄光をお返しすることができます。「よくやった。よい忠実なしもべだ。」とかの日には、天国に迎えていただくことができます。