苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近現代教会史7  ナチズムとの教会闘争・・・20世紀(2)

2.ナチズムとの告白教会の戦い―――――バルメン宣言について
                
(1)獣どもの出現
「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。・・・ また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」黙示録13:1,2,11

 第一次大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約(1919年6月28日)によって、戦争を引き起こした責任を問われ、国民総生産の20年分にあたる莫大な賠償金を課せられ、民族自決主義の大義のもと領土の割譲を強いられる。1918年末君主制が崩壊した上、経済的にも苦境に陥ったドイツは民族的誇りを傷つけられた。これが後のナチス台頭の遠因となる。
 1919年8月当時世界でもっとも民主的といわれたヴァイマール憲法が発布され、共和政治が行なわれることになったが、莫大な賠償金は共和国政府を圧迫し国民生活は貧窮の中に置かれていた。賠償金の支払いが滞りがちになると、フランスはドイツ産業の心臓部にあたるルール地方を占領し始める。心臓を停止させられたドイツはインフレが天文学的数字となり、失業者が巷にあふれた。1920年代になると米国資本の投入によって、ヴァイマール体制は不安定ながらもドイツの経済は回復する。しかし、やがて自国を戦場としなかった戦勝国米国はバブル的経済となり資本は株式投機へと移動した為、1928年後半になるとドイツ経済は失速しはじめる。そして、米国のバブルは1929年10月24日「ブラック・サースデー」に破裂して、世界恐慌が始まり、ドイツは再びどん底に陥れられてしまう。
 こうした混乱に乗じて登場したヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、略称: NSDAP)は、その詳細は省くが、1933年1月30日にヒトラー内閣を成立させる。同年3月には、ヒトラーは全権委任法を成立させ、憲法に反する法律を制定する権限を含む強大な立法権を掌握した。
 注意すべきことは、初期のミュンヘン一揆の頃のやり方は別として、政権の掌握をヒトラーは選挙という合法的手段で成し遂げたということである。フランス革命のところでも述べたが、中世的な中間階層が廃され「国民」が政府に直結した近代の国民国家・大衆国家の形態は、煽動的演説に長けたカリスマ的政治家によって独裁政治に暴走してしまう特質を持っているのである。時の政府に対する大衆の失望、不景気が打ち続くとき、大衆は経済的な満たしと民族の誇りの高揚という餌を撒かれるといとも簡単に煽動的政治家に熱狂する習性がある。→http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100827/p1
 最近、折からの不況のなかで、ヒトラーの経済政策を安易に称賛する武田知弘『ヒトラーの経済政策-世界恐慌からの奇跡的な復興』という本が売れているようであるが、いかがなものか。確かにヒトラーは莫大な赤字国債で資金を作ってアウトバーン建設を始めとする公共事業を起こして、ユダヤ人資本家に増税し、福祉政策を展開して世界で最初に不況を克服し大衆の圧倒的支持を得たのだろう。だが、巨額の赤字国債は将来償還しなければならない。ヒトラーは、周辺国を侵略し被占領国から財産を強奪することで債務償還をはかり、国債の最大の引受先である欧米の債権国とは戦争を始めて踏み倒し(1930年)、1941年末になると戦費調達のためにはユダヤ人資本家の財産を没収し収容所送りにしたのであるから、とんでもない経済政策であると言わねばならない。(王立図書館というすごい名前のHPの第二次世界大戦資料館「ヒトラーの経済政策」参照。)
 ヒトラーはその後、共産党を中心とする反対勢力を徹底的に弾圧・排除し、独裁的な政治体制を確立した。ナチ政府は、国家内のすべてのものを国家全体に奉仕すべきものと見なすから、当然、教会を支配下に置こうとする。政府は、一方では「われわれは、それが国家の存立を危うくせず、またゲルマン人種の美俗・道徳観に反しない限り、国内におけるすべての宗教的信仰の自由を要求する。我が党はかくのごときものとして、宗派的に一定の信仰に拘束されることなく、積極的なキリスト教精神の立場を代表する」として、体制に反しないという条件付きでの信仰の自由を認めたが、他方では、各州の領邦教会ルター派、改革派、合同教会などをヒトラーの指導者原理に基づく一つの帝国教会として統合することを目論み、また帝国内の公職からユダヤ人を追放するための「アーリア条項」を定め、それを教職者に対しても適用した。「ドイツ的キリスト者(Deutschen Christen)」運動の指導者であるルートヴィヒ・ミューラーを同年8月に初代の帝国監督として任命した。日本における宗教団体法と同類の動きである。
 歴史上に繰り返し現われてきた黙示録13章の構図が、またしてもここで浮かび上がってくる。ヒトラーは海から上ってきた第一の獣であり、彼に権威を授けたのは竜すなわちサタンである。そして、小羊のような二本の角があり、その口から出ることばは竜のようであったという地から上って来た第二の獣はドイツ的キリスト者であった。ヒトラーを支持するとはとんでもない変人・偏向キリスト者たちだったのかといえば、そうではなく、パウル・アルトハウス、エマヌエル・ヒルシュ、ゲルハルト・キッテルといった世界的に著名な神学者・聖書学者たちもそのなかに含まれていたことを思えば、問題は深刻である。(高価なので手が出ないのだが、この問題を扱ったロバート・エリクセン第三帝国と宗教―ヒトラーを支持した神学者たち」(風行社)という本がある。)
他方ナチ政府に対して組織的抵抗を敢行した告白教会闘争の中心的な役割を果たしたのが、マルティン・ニーメラー(1892 - 1984)によって指導された「牧師緊急同盟」である。牧師緊急同盟は教派を超えた牧師の集まりであり、K.バルト、D.ボンヘッファー、P.ティリッヒらが含まれる。彼らは、ナチ政府とドイツ・キリスト者の運動に対して組織的な抵抗をしていく。彼らは各地で告白教会会議を開き、そこで数多くの神学的宣言を採択する。1934年5月29日から31日、それらを結集するために、バルメンのゲマルゲ教会で、「ドイツ福音主義教会第一回告白会議」が開催され、5月31日、本会議において「バルメン宣言」が全会一致で採択された 。起草者はカール・バルトである。

(2)内容(札幌北光教会HPより)
ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言(バルメン宣言)
1934年5月29−30日、バルメン告白会議の神学的宣言
 ドイツ福音主義教会は、その1933年7月11日の憲法前文に従えぱ、宗教改革から生まれた等しい権利をもって並存している諸告白教会の同盟である。それらの諸教会を結合している神学的前提は1933年7月14日に政府によって承認されたドイツ福音主義教会憲法第一条および第二条第一項において次のように述べられている。

 第一条ドイツ福音主義教会の侵すべからざる基礎は、聖書においてわれわれ証しせられ宗教改革信仰告白において新しく示されたイエス・キリストの福音である。教会がその使命のために必要とする一切の権限は、その事実によって規定され、且つ制限されている。

 第二条第一項ドイツ福音主義教会は、諸教会(州教会)に分かたれる。
 ドイツ福音主義教会の告白会議に集ったわれわれルター派教会、改革派教会、合同派教会の代表者、および独立したもろもろの教会会議、諸大会、諸団体の代表者は、われわれがドイツの告白諸教会の同盟としてのドイツ福音主義教会という地盤の上に、共に立っていることを宣言する。その際われわれを結合するものは、一にして聖なる普遍的な使徒的教会のただひとりの主に対する信仰告白である。
 われわれは、この信仰告白の連帯性と同時にドイツ福音主義教会の一致が、極度の危険にさらされているという事実を、ドイツにおける全福音主義教会の前に、公に宣言する。それが脅かされているのは、ドイツ福音主義教会成立の最初の年に次第に明らかとなってきた、ドイツ・キリスト者という有力な教会的党派およびその党派によって支持されている教会当局の指導方式・行動方式による。この脅威というのは、ドイツ福音主義教会を統一している神学的前提が、ドイツ・キリスト者の指導者・代表者によっても、また教会当局によっても、たえず根本的に他のさまざまの前提によって妨害され無効なものにされているという事実である。われわれの間で効力を持っているどの信仰告白に従っても、もしそのような諸前提が通用するならば、教会は教会でなくなる。従ってそのような諸前提が通用するならば、ドイツ福音主義教会もまた、告白教会の同盟として、内的に不可能となるのである。
 われわれは今日、この事柄に関して、ルター派・改革派・合同派各教会の肢々として、共同して語りうるし、また語らねばならない。われわれがそれぞれの異なった信仰告白に対して忠実でありたいと願い、またいつまでも忠実でありたいと願うゆえにこそ、われわれには沈黙が許されない。それは、共通の困窮と試練の一時代の中にあって、われわれは一つの共通の言葉を語らされると信ずるからである。このことが告白教会相互の関係にとって、どのようなことを意味しようとも、われわれはそれを神に委ねる。
 われわれは、教会を荒廃させ、そのことによってドイツ福音主義教会の一致をも破壌する「ドイツ・キリスト者」および今日のドイツ教会当局の誤謬に直面して、次の福音主義的諸真理を告白する。

第1テーゼ
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14・6)
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書10・7、9)
 聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。
 教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

第2テーゼ
「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(コリントの信徒への手紙一1・30)
 イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、われわれの全生活にたいする神の力ある要求でもある。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝にみちた奉仕へと赴く喜ばしい解放を与えられる。
 われわれがイエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

第3テーゼ
「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされています」(エフェソの信徒への手紙4・15、16)
 キリスト教会は、イエス・キリストが御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今日も働きたもう兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただ彼の慰めと指示とによってだけ彼が現われたもうことを期待しつつ生きているということ、生きたいと願っているということを証ししなければならない。
 教会が、その使信やその秩序の形を、教会自身の好むところに任せてよいとか、その時々に支配的な世界観的確信や政治的確信の変化に任せてよいとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

第4テーゼ
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイによる福音書20・25、26)
 教会にさまざまな職位があるということは、ある人びとが他の人びとを支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行なうための根拠である。
 教会が、このような奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者を持ったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

第5テーゼ
「神を畏れ、王を敬いなさい」(ペトロの第1の手紙2・17)
 国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量(はかり)に従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。
 国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
 教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

第6テーゼ
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28・20)
「しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテへの手紙二2・9)
 その中にこそ教会の自由の基礎があるところの教会への委託は、キリストに代わって、したがってキリスト御自身の御言葉と御業に説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、すべての人に伝えるということである。
 教会が、人間的な自立性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめることができるというような誤った教えを、われわれは退ける。

 ドイツ福音主義教会の告白会議は、以上のような諸真理を承認し、以上のような諸誤謬を退けることが、諸教会の同盟としてのドイツ福音主義教会の不可欠の神学的基礎と考えることを宣言する。この告白会議は、その宣言に賛同しうるすべての人々に対して、彼らが教会政治的決断を行う際に、この神学的認識を記憶するように要求する。またかかわりあるすべての人々が、信仰と愛と希望の一致の中へと、帰り来るようにこいねがう。
Verbum Dei manet in aeternum(神の言葉はとこしえに保つ)

<邦訳は信条集(新教出版社)のテキストに若干手を加えた。テーゼ部分は宮田光雄「十字架とハーケンクロイツ」(同)所収の訳文。ただし、引用聖句は新共同訳を基本にドイツ語原文と整合性を持たせた。>

付録.マルチン・ニーメラーの夢
 ニーメラーは告白教会の指導者として、内閣官邸に赴きヒトラーに抗議書を渡し、そのとき1時間余、ヒトラーと激しく論争している。その後、ニーメラーは国家反逆罪の容疑で検挙されるも無罪判決を得るが、裁判所を出たとたん秘密警察に「保護」されて、V.フランク『夜と霧』で有名なダッハウ収容所にドイツ敗戦まで収容されることになる。戦後、ニーメラーは何度もひとつの夢を見たという。それは、主から「おまえは、なぜこの男(ヒトラー)に福音を語らなかったのだ」と問われる夢だった。宮田光雄氏の「M・ニーメラーとの対談」(『日本の政治宗教』朝日選書、所収)の主要部が、氏家法雄氏の下記サイトに引用されている。ご一読をお奨めしたい。
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_7295.html