苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の王国を広げていく

         マタイ13章1−21節


序 マタイ13章は1節から52節までは、天の御国についての譬えが続いていきます 。
 「天の御国」というのは、「神の国」と同義語です。国と訳されることばは、バシレイアといいますが、バシレウスというのは王様のことですから、バシレイアは王国です。王国というのは、王様が支配者として支配している国。ですから、天の王国、神の王国ということは、神の支配する国のことです。


1 真理を明らかにしていただける時代


(1)たとえ話を悟らない人々
 イエス様はこの日、多くの群衆に押し迫ってきたので、彼らみなに声が届くために、小舟に乗って腰を下ろして、小舟から岸の群衆に向かってお話をなさいました。湖面を吹き渡るそよかぜにイエス様の声が運ばれて、群衆の耳に届くように配慮されたのです。まずは、種まきのたとえです。3節から9節。

 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」

 この種まきの譬え話を聞かされて、「今日の話はこれまで」と言われた人々は、どういう風にこれを理解したのでしょう。ある人は、「イエス様は大工さんなのに、農業指導員みたいな話をするなあ。」と思ったでしょう。ある人は「いったいイエス様は何を教えたいのだろうか?」と首をかしげながら帰ったことでしょう。いずれにしても、多くの人たちにはこの譬えの意味はすぐにはわからなかったのです。
 譬え話というと、ふつうわかりにくいことをわかりやすくするためにするものだと考えますが、この譬えだけを聞かされたとしてもいったい何をイエス様が伝えようとなさっているかはわからなかったでしょう。特に、これは神の国の譬え、天の王国の譬えなのですが、当時の多くのユダヤ人たちは「王国」と聴いて思い浮かべるのはかつての、ダビデやソロモンが王として支配していた時代のイスラエルの栄光の時代でした。ですから、彼らはイエス様に地上的な王国、にっくきローマ帝国の軍隊を打ち破り、帝国のくびきからイスラエルを解放する強力な王様が出現して、繁栄する地上の王国を期待しました。実際、五千人の人々にパンを提供したとき、群衆はイエス様を王として担ぎ出そうとしました。
 ところが、イエス様のおっしゃる神の王国、神様の支配というのは、そういう政治的なものではなくて、私たちの心の中に始まり、生活に具体化し、家庭が変わり、職場が変わり、地域が変わりというふうに浸透していくものでした。また、それはこの地上で終わるものではなく、この世を去って天国にいっても永遠に続くものでした。政治的革命を期待する人々には、イエス様のたとえ話は全く意味不明でした。
十二弟子たちは不思議に思って、イエス様がたとえをもって群衆にお話になるわけを、こっそりとイエス様にうかがいました(10節)。するとイエス様は、イザヤの預言を引用されて、次のように説明されました。

「 13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」

恐ろしいことばです。イエス様は、たとえ話の最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいましたが、それは言い換えると「聞く耳のない人は聞かなくてよい、聞いても無駄だよ」とおっしゃるのです。そうして、このように人々がわからないのは、旧約の預言者イザヤの預言の成就なのだよとおっしゃるのです。

「13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。
  『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。
  確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。
  それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、
  わたしにいやされることのないためである。』」

 イザヤは、神様は心かたくななユダヤの民には、その福音の真理を隠してしまわれるのだとおっしゃっているのです。実際、彼らはこれからしばらくのちに、この世の軍事的・政治的な王として立ち上がろうとせず、異邦人、ローマ人にも癒しを行ったりするイエス様に失望して、十字架にはりつけて殺してしまいます。


(2)真理を明らかにされる人々
 イエス様のたとえの意味する天の王国の真理を教えてもらえ、悟ることの許されることは決して当たり前のことではないのです。

「 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」

旧約時代には、信仰の父アブラハム、偉大な預言者モーセダビデ王、イザヤ、エリヤといったたくさんの敬虔な人々がおりました。そうした人々は、メシヤを待ち望み、その約束を与えられましたが、その成就を見ることはありませんでした。予告編を見て、本編を見たいと望みながらかなわないで、この世を去っていきました。
しかし、神の御子が人となり救い主としておいでになった新約の時代の神の民は、偉大な預言者や義人たちが切望したその真理を、メシヤを見ることができるのです。私たちはその偉大な新約の時代に生かされ、聖徒として召されたことはなんとありがたいことでしょうか。


2.種まきのたとえ


 主イエスは種まきのたとえをもって、神の国の奥義、天の王国の奥義を明らかにされます。それは、政治的・軍事的な外側からの働きかけによってではなく、私たちひとりひとりのたましいの中に始まり、私たちの周囲に広がっていくものなのです。それが神様の方法です。

「13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。」

種とは御国のことば、キリストの教えです。実を結ぶ秘訣は、みことばの種がまずはなにより肝心だということがわかりますね。どんな土地でも、種をまかねば収穫はゼロです。ですから、みことばの種を、個人の生活において聖書を通読し続けることに励み、主の日、家庭集会でみことばを理解し、分かち合うことに励みましょう。

第一の種は道端に落ちました。これはみことばをまるで悟らない人です。キリストのことばを聞いても、「悟らない」つまり、自分に関係があることを悟らず、自分の罪を認めず、悔い改めず、イエスを信じようとしない人です。そういう人の場合には、悪い者つまり悪魔が来て、その人の心にまかれたみことばを奪っていってしまいます。毎月毎月、通信小海で聖書のことばを解き明かしています。この1月号で244号になりますが、「こんなの私とは関係ない」と思っているならば、悪魔がやって来て、その人の心からみことばを奪ってしまいます。
実を結ぶ信徒となるためには、みことばを聞いたならば、まず、私たちは、「これは私に対する主のおことばだ」という風に悟ることが必要です。「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と祈りながら聖書を読み、説教を聞きましょう。

第二は岩地にまかれた種です。一時的・感情的タイプのことです。

「 13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」

つまり、イエス様の話を聞いたら、一時的な感情で「信じます」と表明するのですが、すぐに醒めてしまうのです。映画館で感動して泣いたのに、映画館から出てきたら平気で笑っていられるみたいな感じでしょうか。イエス様の十字架の愛に感動して信じて受け入れる。そして、イエス様を主として信じるということは、自分の十字架を負って、イエス様の後に従っていくことなのだということをわきまえていないので、イエス様を信じることのゆえに迫害や困難があると、さっさとイエス様のもとから逃げ出してしまう人です。
実を結ぶ信徒となるためには、イエス様を信じるとは、イエスを主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となってしたがうのだということをわきまえなければなりません。「あなたがたは、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ1:29)

第三は、いばらの地タイプの人です。

「13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」

この人の心にまかれた種は、少しは芽を成長しますが、荊の方がもっと勢いが強いので、日が当たらなくなって結局結実にいたりません。いばらとは「この世の心遣いと富の惑わし」です。Kさんという人が、ある教会に奥さんといっしょに来るようになりました。当初喜んで聖書クラスなどにも出て洗礼も受けました。ところがある日、教会の修養会があったときのことです。Kさんは宣教師の先生に「先生は富の誘惑に気をつけなさいとおっしゃいますが、わたしは必ず金持ちになって見せます」と豪語したそうです。どうも、宣教師が富の問題を指摘したことが、カチンときたようです。あのバブル時代のことです。
Kさんはイエス様を信じて悪い生活習慣からも解放されていたのですが、やがて教会から足が遠のくようになり、なにか事業を起こし一時的には羽振りも良かったようですが、やがて事業も左前になって家庭も壊れてしまったそうです。そうして結局、主のもとに帰ってくることもありませんでした。
私たちは、主のために実を結ぶ人生を送りたいならば、この世の誘惑、この時代、格別マモンの誘惑に警戒しなければなりません。イエス様によれば富はえてして神の代用品、偶像になるのです。あなたの心の中で、「金持ちになりたい」ということ自体が人生の目的のようになっているとしたら、もう悪魔の罠に陥っています。お金は、便利なものですが、私たちの人生の手段であって人生の目的ではありません。人生の目的は、「神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶ」ことのほかありません。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。そうすれば、あなたは富の奴隷でなく富の主人となることができます。

そして、最後に第四は良い地にまかれる種は、豊かに結実します。

「13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

 良い地の心とはどういう心でしょうか。
 第一に、みことばを聞いたならば、まず、私たちは、「これは私に対する主のおことばだ」という風に悟ることです。「主よ、お語りください。しもべは聞いています。」という心で主のみことばを聞くことです。
 第二に、イエスを主として受け入れ、自分はイエス様の弟子となって、自分の十字架を負ってイエス様にしたがうのだということをわきまえることです。
第三に、あくまでもイエス様を主として、富の誘惑、この世の欲の誘惑に警戒することです。富の管理において神の国とその義とを第一として、主におささげした残りのものをもって生活をするようにと心掛けることです。
 こうした心がけを実践するならば、ある人は百倍、ある人は六十倍、ある人は三十倍の実をむすんで、イエス様にご栄光をお返しすることができます。「よくやった。よい忠実なしもべだ。」とかの日には、天国に迎えていただくことができます。
 こうして、神様の前に豊かに実を結び、神の国、神のご支配をあなたの生活に、家族に、仕事の仕方に、地域社会に広げて行きましょう。