苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書釈義の目指すこと(2)   神の友アブラハム


 <聖書による聖書解釈を実践すると、「歴史的文法的聖書釈義」以上の意味が立ち現われてくるばあいがある。> このことについてもうひとつの例を挙げてみたい。創世記22章におけるアブラハムのイサク奉献の記事に関するヘブル書11章における意味開示である。
 

11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(ヘブル11:17−19 新改訳)

11:19かれ思へらく、神は死人の中より之を甦へらすることを得給ふと、乃ち死より之を受けしが如くなりき。(文語訳)
11:19アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。(新共同訳)
11:19彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。(口語訳)


 新改訳は「これは型です」と他の邦訳にくらべてこの部分を独立的に訳している。他の邦訳は「如くなり」「・・・も同然」「いわば・・・」と軽く訳しているのみ。直訳すれば「それで彼は、死者の中からイサクを型において取り戻したのです。」であるが、それでは意味がわからないので一工夫したのだろう。 「型」と訳されていることばは、paraboleつまり「譬え」ということばである。赤い頬(A)をりんご(B)に譬えるように、「神のひとり子イエス・キリストがゴルゴタの丘でいけにえとして死に三日目によみがえられたこと」(A)を、「アブラハムがひとり子イサクがモリヤの山でいけにえとして捧げ取り戻した出来事」(B)に譬えているのである。「型」という訳語はおそらくNASB(New American Standard Bible)の訳語type影響だろう。
 モリヤの山の出来事が、その二千年後のゴルゴタの丘と復活の墓の出来事の譬えであるならば、イサクが御子イエスの型であり、アブラハムは父なる神の型であるということになる。アブラハムは、ゴルゴタでひとり子をささげる父なる神の痛みを、二千年前にモリヤの山で味わわせられたのである。だとすると、次の創世記22章の各節は格別に深い意味をもってわれわれに迫ってくる。たとえば、第二節。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:2)

 父なる神は、自分自身に命じる思いをもって、このことばをアブラハムに語られたのだろう。


 福音書ゴルゴタの出来事についてもまた、創世記のモリヤの出来事に照射されて見えてくることがある。

アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。(創世記22:6 新改訳)

 福音書には、ローマ兵によって十字架を背負わされてゴルゴタに向かうイエスの姿しか見えない。だが、実は御父が御子に十字架を背負わせ、御子に伴ってゴルゴタへと向かって行かれた。そして、御父は御子をいけにえとしてささげられたのだ、と。アブラハムは人でありながら、神の愛と痛みを知るために選ばれた。モリヤの山での出来事はゴルゴタの丘での出来事の譬えparaboleである。
 友は苦しみを分かちあうものである。だから、神はアブラハムを特別な意味で、わが友と呼ばれたのではなかろうか。