聖霊が豊かに教会に注がれ世界宣教、世界教会形成の時代が始まったのがペンテコステです。ペンテコステ以来、旧約時代にはイスラエルのなかに限られていた福音が、爆発的に世界中に伝えられるようになり、ペンテコステ以来、教会はあらゆる民族国語を超えた神の家族となったのです。
今年のペンテコステは、聖書全体から、聖霊というお方がどういうお方で、どういうみわざをなさるのかについて学びたいと思います。
1.三位一体の第三人格
まず聖霊はどんなお方か。父・子・聖霊の三位一体なる神様の第三の人格でいらっしゃいます。ですから、万物が創造される前、永遠の昔から父なる神、子なる神とともにいらっしゃるお方です。聖書のなかで聖霊の呼び名は、聖霊、御霊、神の霊、御子の霊です。聖霊は父なる神の霊であり、同時に、御子イエスの霊とも呼ばれていらっしゃいます。そういう意味で、古代教父アウグスティヌスは、聖霊は愛する父と愛される子とを結ぶ愛なのだといいました。
このことからわかるように、聖霊は単なる力、エネルギーといったモノではなくて、ご人格でいらっしゃるということを確認しておきましょう。「聖霊に満たされる」というような表現を読むと、なんだか聖霊は油や水や風にたとえられますが、それはあくまでたとえであって、ご人格なのです。御人格でいらっしゃるということは、聖霊には知性と感情と意志があるということです。使徒の働きを見ますと、聖霊がパウロに語ったという表現が出てきます。語るというのは人格のみがなしうることです。また、エペソ書には「御霊を悲しませてはいけません」と出てきますが、これも聖霊がご人格だというしるしです。つまりは、聖霊はエネルギーや物質とちがって、心がおありなのです。
人格をモノ扱いすることほど侮辱的なことはありません。みなさんも人格ですから、モノ扱いされると悲しいし腹も立つでしょう。聖霊はご人格ですから、聖霊をモノ扱いしないように注意しましょう。むしろ、愛と尊敬をもって礼拝することです。
2.創造と保持における聖霊のわざ
さて、次に、聖霊のお働き、みわざについてです。宗教改革者カルヴァンは、私たちが神様のみわざを正しく知ろうとするとき、造り主である神と救い主である神という両方の面から知ることがたいせつであると教えています。父と子と聖霊の三位一体なる神は、万物の造り主であり、かつ、救い主でいらっしゃいます。ですから、聖霊のお働きも、万物の創造ということと救いの業というこの二つのことがあります。まず創造と保持についてみことばに学びましょう。 創世記第1章1節―3節を開いてください。
「1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」
新約聖書の光に照らされながら、ここを見ると万物の創造の主宰をなさる父なる神が1節に「神が天と地を創造した」と表現されていて、2節に聖霊は「神の霊が水の上を動いていた」と表されています。
聖霊は、万物の創造においても、その役割を果たしていらっしゃいます。「神の霊が水の上を動いていた」の「動いていた」と訳されることばは、他の聖書の箇所を参照しますと、「鷲が雛鳥の巣の上をホバリングする」という意味のことばとして用いられています。ツバメの親鳥がホバリングしながら、顔中口にしてピーピー鳴いている雛たちに餌をやっているという場面が思い浮かべてください。そういうイメージをもって、創世記1章2節を見ますと、味わい深いものがあるでしょう。「地は茫漠として何もなかった。」とありますが、まだなにも作られていない原始の「地」(といっても大地もまだない)に、聖霊はさあ今か今かといのちを与えようと、母鳥が雛を見るように愛をもって待ち構えていらっしゃるということです。
詩篇104篇には神の御霊が万物にいのちを与え、喜びを与えるさまがあらわされています。
「 104:24 【主】よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。
地はあなたの造られたもので満ちています。
104:25 そこには大きく、広く広がる海があり、
その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。
104:26 そこを船が通い、あなたが造られたレビヤタンも、そこで戯れます。
104:27 彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。
あなたが時にしたがって食物をお与えになることを。
104:28 あなたがお与えになると、彼らは集め、
あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。
104:29 あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、
彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。
104:30 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。
また、あなたは地の面を新しくされます。」
三位一体の神の第三人格であられる御霊は、万物の創造とその保持において、このように豊かな働きを今もしていてくださいます。このところ信州でも山々が芽吹いて、実に山々は見事な新緑になりました。花々も福寿草に始まって、オオイヌノフグリ、クロッカス、スミレ、スイセン、コブシ、ダンコウバイ、雪柳、コデマリ、白梅、紅梅、彼岸桜、ソメイヨシノ、八重桜、山吹、そしてツツジ、サツキ、オダマキつぎつぎに咲き誇っていますが、これらすべて生きているものたちは、主の御霊から受けたいのちをもって、主を賛美しているのです。むろん、植物だけではありません。生きとし生けるものは、聖霊によって生命を与えられています。
創造、そして、それを保つ保持のわざにおいて、聖霊はとくにすべての生命を与えてくださっているお方です。これは、クリスチャンであろうとなかろうと、人間だけでなくすべて生きているものにかかわる聖霊のわざですから、一般恩恵における聖霊の業であるということができます。聖霊のお世話になって、クリスチャンであろうとなかろうと、私たちはみな生きているのです。
2.救いにおける聖霊のわざ・・・新しい創造
一般恩恵に対して特別恩恵というのは、神の民に特別に注がれる神様の恵みを意味しています。神の民にだけ特別に注がれるので、特別恩恵といいます。それは、救いにおける神のみわざ、新しい創造です。
(1)新生と義認
救いにおける聖霊のわざ、それはまず新生です。人を新しく生まれさせることです。
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ヨハネ福音書3章5節から8節
イエス様がこのようにおっしゃったとおり、人は聖霊によって新生して初めて神の国を見、神の国に入ることができます。肉つまり人間的な修行や頑張りで神の国にはいることはできないのです。では聖霊によって生まれるとき、その人にはどんなことが起こるでしょうか。
死んでいる人はものを感じること、見ることができません。霊において死んでいるときにも、人はあることがらを感じること、見ることができません。神のきよさと愛を感じること、自分が罪人であるという現実を見ることができないのです。聖霊がみこととばとともにあなたのうちに働き、新しいいのちが誕生するとき、突然、自分が罪人であったのだということに気づかされます。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」とイエス様がおっしゃったとおりです(ヨハネ16:8)。こうして、悔い改めてイエス様を信じる者を、神様はイエス様の功のゆえに義と宣言してくださいます。聖霊は、私たちを新しいいのちに生まれさせます。新しく生まれた者は罪を自覚して悔い改めてイエス様を信じるのです。
(2)子とされたこと
新生において、人は神の奴隷ではなく、神の子どもとして生まれます。ですから聖霊は、「子とする御霊」とパウロの手紙では呼ばれています。聖霊は御子イエスの御霊であり、その御子の御霊は私たち信じる者を、神の子供としてくださるのです。
「8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」
パウロの手紙では、子どもであるという表現は、奴隷であるという表現と対照的なものとして書かれています。奴隷というのは、主人の下にあって、一生懸命働きますが、どんなに働いても、そこにはある恐怖が伴っています。自分の働きがよければご主人様はご機嫌だけれど、もし働きが悪ければご主人様はおれを家から追い出してしまうだろうという恐怖です。子のばあいは、そうではありません。父は子が何ができるかできないか、どれだけ稼いでくるか来ないかといった以前に、わが子としてそこに存在することを喜ぶものです。ですから、子は奴隷のような恐怖を感じる必要はありません。
といっても、主人は奴隷に対するよりもはるかに自分の子に対して期待をしています。自分の相続人として、その子が成長して行くことを期待しています。だから主人の子に対する愛情は大きく、また求めるところも大きいのです。父なる神は、あなたを愛し、また期待していらっしゃいます。私たちは自由な子として、神様に愛をもって応答します。
(3)聖化
聖霊は、私たちを父なる神の子としてくださいました。子どもに期待されていることは、なんでしょう。言い換えると、クリスチャンとして私たちが目指す目標はなんでしょう。それはものすごくレベルの高いことです。それは、天の父に似た者として成長し、成熟してゆくことです。これを聖化といいます。イエス様は山上の説教のなかでおっしゃいました。
「 5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
天の父に似た者として成長し、成熟してゆくということは、天の父なる神が悪い人にも良い人にも、正しい人にも正しくない人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さるように、私たちも自分に親切にしてくれる人にだけ親切にするというのでなく、自分に不親切で迫害する敵のために神の祝福を祈る人となるということを意味しています。それでこそ、天の父のこどもです。
もともと、私たち人間は、アダムのとき、父なる神のかたちであられる御子をお手本として造られました(創世記1:26,27とコロサイ1:15参照)。ところが、アダム以来、そのお手本から大外れに外れてしまいました。けれども、そういう私たち人間を愛して御子は人となってこの世に来られ、私たちに本来の人間としての生き方のお手本を見せてくださいました。そして、そのように生きる前提として、十字架の死と復活によって、私たちの罪を償って父なる神との交わりを回復してくださり、私たちに子とする御霊を注いでくださいました。
ですから、イエス様を信じる私たちは、内側に聖霊を宿し、この世にあってすでに天の父の子どもであり、また、主イエスを長男としてお手本にして生きていくことが許されているのです。イエス様が天の父のご期待をになって、父のみこころのままに自分の人生をささげて行かれたように、私たちもまたそれぞれ置かれた持ち場、立場は異なりますが、父なる神のご期待を受けて、イエス様をお手本として生きていくのです。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)
結び
今日は、二人の姉妹が洗礼を受けることが許されました。洗礼を見ながら、また授けながら、私たちは自分の信仰の原点を確認させていただきました。聖霊によって新しく生まれて、私たちは神の国を見るようになりました。そして、天の父なる神の子どもとされました。だから、この世の価値観に染まらないで、天の父の子どもらしく、長子である御子イエス様の足跡をたどって、ともに成長してまいりましょう。