苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

デマスの悪評はデマっすか?

 ここ数年、信州宣教区の牧師会では、担当者をきめて牧会書簡を順々に学んでいる。一昨日とくに伊那谷牧師が提言されて議論になったのは、テモテの手紙第二の終盤、デマスにかんするところだった。


新改訳  デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。

口語訳 デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った。

塚本訳 デマはこの世を愛し私を棄ててテサロニケに行き、クレスケはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ってしまったから。

前田訳 デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行き、クレスケンスはガラテアに、テトスはダルマテアに行きました。

新共同 デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。
                   2テモテ4:10


 デマスは、コロサイ書4:14に、「 愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」とあるように、パウロのよき同労者であったが、テモテの手紙第二の末尾を見ると、彼は「この世」を愛して使徒パウロを捨てたのだと、たいてい非難の的になっている。翻訳自体が、そういうものになっている。だが、この釈義と翻訳はいったい正当なものなのだろうか?ということが話題になった。記憶のためにメモしておこう。

1.「捨て」「棄て」「見捨て」と訳されるエンカテリペン(未完了形)は、「残して」とも訳されることばである。必ずしもデマスがパウロを見棄てたとは取りえない。下記は「残す」と訳された例。
 「また、イザヤがこう預言したとおりです。
  『もし万軍の主が、私たちに
  子孫を残されなかったら、
  私たちはソドムのようになり、
  ゴモラと同じものとされたであろう。』・・・」ローマ9:29


2.「今の世(この世)を愛し」というのは、必ずしも「富や快楽や虚栄を愛した」という意味とはかぎらないのではないか。
「世をも世にあるものをも、愛してはなりません。」(1ヨハネ2:15)とはあるものの、「神は世を愛された」(ヨハネ3:16)とあって、「世を愛する」ことは必ずしも悪い意味とはかぎらない。ただしヨハネの当該箇所の原語はkosmosであり、2テモテの当該箇所で「世」と訳されることばはaionという別のことばだが。

 

3.デマスに続く「またクレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った」と名があげられる伝道者たちは、それぞれの任地に伝道に赴いたと解されるなかで、ただデマスだけが堕落したと理解するのは、文脈的に無理があるのではないか。


 ただし、従来の翻訳にも根拠はある。
1.「この世を愛し」の「愛するagapao」は、8節の「主の現われを慕っているagapao者」と、愛の対象の違いで対照的に扱われていると解しうる。
2.ヨハネの手紙第一2:15「世kosmosをも世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とある。「神が世kosmosを愛する」(ヨハネ3:16)ということは正しくても、人が世を愛するというのは肯定的な意味で聖書では言われないのではなかろうか。
 「世を愛する」という表現は新約聖書ではヨハネ文書の二箇所のみで、あとはテモテの手紙第二のデマスに関する記事であり、しかもそこで世と訳されるのはkosmosでなくaionである。


 翻訳はなかなかむずかしい。デマスが「今の世を愛して」というのはどういう意味なのだろうか。もし、デマスがテサロニケの滅び行くたましいを愛して、福音を伝えるために、老パウロに「私は(エペソを)出ます」と行ってしまったという意味であるとするならば、この箇所について従来言われてきたことは名誉毀損になる。デマスにはあまりにもお気の毒。