苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

事実どおり神のことばとして

こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(1テサロニケ2:13)

 テサロニケ教会は、コリント教会とは対照的に、またピリピ教会と同じように、模範的な教会だった。偶像崇拝から生けるまことの神に立ち返った彼らは、イエスの来臨を待ち望むいきいきとした群れだった。テサロニケ教会がそのような群れとなりえたのは、彼らがパウロの伝えた神の使信のことばを、神のことばとして信仰をもって受け入れたからである。神は、不思議なことだが、その愛する教会を導くに当たって、土の器にすぎない人間をお用いになる。直接に聖なるお声を聞かせてくださるならば、誰もが恐れおののいて拝聴し、迷うことがないだろうにと思われるのだが、あえて弱く欠けある人間を尊いおことばを運ぶ器としてもちいたまうのである。彼が語ることばを、単なる人間のことばとして参考意見としてただ聞き流す人の人生には、何も起こらない。しかし、人を通して語られる神のことばを神のことばとして信仰をもって受け取る人の人生には、神の御業がたしかに働く。
 神は、私たちに信仰を求めていらっしゃる。そのために、人間という土の器を通して、語り給う。