苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

空の鳥、野のゆりを師とせよ

マタイ福音書6章25-34節の講解

 いのちのについて何を食べようか、何を飲もうか、からだについて何を着ようかと思い煩ってはいけない。思い煩うと、心が天の父とこの世に引き裂かれてしまうから。いのちをくださった天の父は、これを養う食べ物をくださるし、からだをくださった父は、これを覆う着物をくださる。
 私たちの師は、空の鳥と野のゆりである。空の鳥は食べ物を思い煩わず、天の父に生かされる寿命のかぎりを軽やかに生きている。野のゆりはどのように着飾ろうかなどと心配せず、天の父が装わせてくださるままに美しく咲いて、最後はたきつけとなり、煙となって天に戻っていく。私たちも、天の父が養ってくださり、装ってくださるままに生き、与えられた寿命をまっとうすればよい。
 クリスチャンとして、食べること飲むこと、着ること、つまり生活上のことがらについて適切な配慮をすることは正しいことであるが、それがときに不信仰な思い煩いになってしまうことがある。そうならないための秘訣とはなんだろう。「神の国(神の支配)とその義(神との正しい関係)とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」である。神の国は、第二、第三でなく、第一に求める。富であれ時であれ何であれ、まず神のものを取り分けて、残りのもので生活する。この原則をきちんと立てて生きるとき、私たちは思いわずらいから解放されて、空の鳥のように、野のゆりのように、与えられた分を生きぬくことができる。

<本文>

私の父は50歳で洗礼を受けました。その父がもっとも愛した聖書の箇所は、山上の垂訓のこのくだりでした。昔の人はよく文章を暗誦したようですが、学生時代から英語が好きで仕事上も英語を使っていた父はこの箇所と主の祈りを英語で暗誦して、会社からの帰途に夜道を詩吟みたいに大きな声で吟じながら帰ってきたものでした。
 父は洗礼を受けて三年後に天に召されました。葬儀の後、弔問に訪れてくださった友人のヴィクターさんというお名前だったと思いますが、その方が、「水草さんは、仕事で悩んでいましたが、クリスチャンになって本当に幸せそうでした。私に、『空の鳥を見なさい、野のゆりを見なさい』というキリストの教えを暗誦して聞かせてくださいました。 」とおっしゃっていました。
 「おとうちゃんは、何を食べるか何を飲むか何を着るか、そんな心配ばかりして生きてきたなあと思うんや。学校を卒業して、会社に入って、ずっとしてきた仕事は、何千万、何億売り上げがあったとか、どれだけ損したか、そんな心配ばかりやった。・・・そういうお父ちゃんの心に、イエス様のことばがしみてきたんや。でも、今も、仕事はそんな心配ばかりやなあ。」父はそんなふうに話していました。


1 思い煩うな


「6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」主イエスはこのようにおっしゃいました。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかと考えること自体がいけないわけではありません。家庭の主婦は、毎日毎日、家族のためにごはんのメニューを考え工夫し、季節ごとに家族が快適に過ごせるように何を着るかと考えることも大切なつとめでしょう。イエス様がおっしゃりたいのは、食べること着る事で「心配するな」ということです。
 このあと、27節、28節、そして31節に「心配」ということばがでてくるので、この短い箇所に合計5回も心配ということばが出てきていることになります。「心配するメリムナオー」ということばは、心が分裂してしまうということです。神様を信頼しなくては・・・と片方で思いつつ、もう片方では、あれほしい、これほしい、と悩むことを意味しているのです。
 いのちのについて何を食べようか、何を飲もうか、からだについて何を着ようかと思い煩ってはいけません。思い煩うと、心が天の父とこの世に引き裂かれてしまうからです。いのちをくださった天の父は、当然、これを養う食べ物をくださらないわけはないし、からだをくださった父は、当然、これを覆う着物をくださらないわけがないと主イエスはおっしゃるのです。「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」主イエスのことばを読んで、天の父は面倒見のよいかたなんだなあと感心しました。もし天の父が車をくださったら、ガソリン代もつけてくださるし、子どもが生まれたらちゃんと養育費だってつけてくださるという話です。
 主イエスは、生活の心配事についての君たちが模範とすべき師は、空の鳥と野のゆりであるとおっしゃいました。「 6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」確かにスズメやカラスが、眉間にしわを寄せてあくせくと心配して種まき、刈りいれなどしているのを見たことはありませんね。人が種まきするのを後ろで端から食べているのを見ることはありますけど。彼らが心配しなくてもちゃんと神様が養っていてくださいます。まして、神のかたちであるイエス様に似たものとして造られた人間、格別、イエス様を信じて神の子どもとされた君たちのことを、天の父が養ってくださらないということがありえるでしょうか?いや、そんなことはありえません。確かにそうです。
 また、野のゆりはあのブランド、このブランド・・・などと虚栄心をもって思い煩ったりしないで、天の父が装わせてくださるままに、美しく咲いています。「6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
 イエス様はつくづく詩人ですね。古代イスラエルの王ソロモンは知恵に満ちた王で、彼の時代イスラエル空前絶後の繁栄のときを迎えました。その時代、イスラエルには金銀が満ち溢れて、もはや銀は値打ちがないものとみなされたほどでした。王宮は名工たちの金銀細工に飾られ、王の衣も豪華絢爛をきわめていました。けれども、あのソロモンも、天の父が装わせられた一輪のゆりの花の美しさには及ばないではないかと主イエスはおっしゃるのです。一輪の花をしみじみと眺めると、ほんとうにそのとおりです。
 たしかに、空の鳥は食べ物を思い煩わず、天の父に生かされる寿命のかぎりを軽やかに生きています。野のゆりはどのように着飾ろうかなどと心配せず、天の父が装わせてくださるままに美しく咲いています。


2 天寿について


 とはいえ、生きとし生けるものにはやがて死が訪れます。それについても、空の鳥、野のゆりが私たちの先生です。この世のいのちの尽きる時はいずれやってきます。この地上で永遠に生きているわけではありません。ですが、それぞれの命の丈は、天の父がお定めになることですから、いのちの終わりについては心配するには及ばないとイエス様はおっしゃいます。「6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
 私たちは生きるために世に遣わされています。だから、神様にたくされたからだの健康を維持するために適切な食事をし、睡眠をとって自己管理することも神様の前の務めです。また健康診断をしたり、具合が悪ければ薬を飲んだり、病院に行く、それはよいことです。
 でも、自分がいつまで生きていられるのかと、寿命について心配する必要はありません。神様が最善のときを定めていてくださいますから。神様がこちらに来なさいとおっしゃらないかぎり、命は失われることはありません。パレスチナの野に咲くゆりも、私たちにいのちの最後のことを教えています。「6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださる」と主イエスはおっしゃいました。パレスチナの野は乾燥地帯ですが、その季節になり雨が降るといっせいに野のゆり(アネモネ)が咲き誇ります。ですが、熱い乾燥した風が吹くと野のゆりはいっぺんで枯れてしまい、翌日には炉の焚き付けにされるそうです。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる」とはそういうことを意味しています。美しく咲くだけでなく、最後はすべてむだなくたきつけとしてささげつくして、その煙は天に昇って行って生涯を終わる。この野のゆりの姿にもなんだか教えられますね。私たちも、天の父が養ってくださり、装ってくださるままに生き、与えられた寿命をまっとうすればよい。それこそ天寿というものです。



3 神の国の民らしく


 そうして、最後に、イエス様は、私たちが神の国の民らしく生きることについて教えてくださいます。「6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」
 異邦人というのは、神の国の民でない人たちのことです。天の父のことを知らないので、何を食べていけばいいのか、何を着ればいいのか、どこに住めばいいのか、どんな車に乗るのか、肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢といったことで、いつも思い煩って生活をしているほかないのです。みんな幸せになりたくて、一生懸命、あくせくしているけれども、ほんとうに満ち足りることがなく、不安のなかに歩んでいます。
 でも、イエス様を信じて、万物の創造主であるお方を天の父として持っている私たちは、神の国の民です。天の父は、私たちが食べるものも、飲むものも、着るものも、家も、車も必要なものはすべて知っていてくださいますし、気前のよいお方です。ちゃんと必要な分はきちんと用意してくださいますから、思い煩う必要はありません。
 私たちクリスチャンも、この世界にあって食べたり、飲んだり、着物を着たり、仕事をしたり、学校に行ったり、趣味を楽しんだり、いろいろしながら生きています。禁欲主義はよろしくない。時にはごちそうを食べることもよいことですし、またちょっとしたおしゃれをするのもよいことです。クリスチャンの女性は、いつもモンペをはいて、お化粧はしてはいけないなどということはありません。ですが、食べること飲むこと着ることが、思い煩いになるとよろしくない。そうならないための秘訣とはなんでしょう。
神の国(神の支配)とその義(神との正しい関係)とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」です。
 神の国とその義は、第二、第三にでなく、第一に求めなければなりません。お金であれ時間であれ何であれ、まず第一に神様のものを取り分けて、残りのもので生活する。この原則をきちんと立てて生きるとき、私たちは思いわずらいから解放されて、空の鳥のように、野のゆりのように、与えられた分を生きぬくことができます。神様のことを後回しにして残った時間、残ったお金を神様にということでは、生活は混乱し思い煩いにとらわれた生活に陥ってしまいます。神の国とその義とを、まず第一に求めるのです。そうすれば、食べるもの、着る物はおまけとしてくっついてきます。
  ところで食べること着ることについて「神の国とその義」とはなんでしょう。こまごまとした規則書があるわけではありません。イエス様は神様の御命令のうちもっとも大事なことはなんですか?と問われた時に、こうおっしゃいました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29−31)ですから、人生の岐路で「この場合、神の国とその義を第一に求めることは、右に行くことかな、左に行くことかな?」と迷ったら、「全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分自身のように愛する道はどちらだろう?」と祈りながら考えればよいのです。そうすれば間違うことはありません。
 最後に、イエス様は配慮深く、私たちが神の国とその義とを第一に選び取るのを妨げることについておっしゃいました。それは、「明日」の心配です。先々の心配をしていたらきりがありません。心が縮こまってしまって、今日という日に選び取るべき神の国とその義を選び取ることができなくなってしまうでしょう。仕事、部活、趣味、あらゆる事柄について、明日の心配は主にお任せして、まず神を愛し隣人を愛する選び取るならば、神様が、あなたの人生に祝福を用意していてくださいます。だから、きょうという日に、勇気を出して、神様を愛し、隣人を愛する道を選びとること徹することです。

「6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」