苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

われらの日用の糧を

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。              マタイ6章11−15節

1 われらの日用の糧を


 あるクリスチャンのご婦人が、おかあさんの思い出をつづられた文章のなかにこんな一節がありました。「母は、国の行く末のことや世界の平和のことを祈る人でしたが、また、裁縫をしていて見失った一本の針が見つかるようにとも祈る人でした。」神様にとって大きすぎる祈りの課題はないし、また、小さすぎる祈りの課題もないのです。
 主の祈りの前半は、「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように」と、ひたすら神の栄光をあらわそうという崇高ないわば宇宙的内容でした。ところが、後半にはいるとなんと、「きょうのご飯をください」というたいそう身近なことがらのお願いとなります。そんなこと祈っていいの?と戸惑いそうですが、いやむしろ、そのような身近なこと、具体的なことをも祈りなさいとイエス様はおっしゃるのです。御国ははるかかなたの理想ではなく、私たちの具体的な生活のなかに始まるのですから。
 イエス様は、尊い神の御子でいらっしゃいますが、私たちと同じように人として来てくださいました。しかも、イエス様は貧しい家を選んでお生まれになりましたし、養父の大工のヨセフは早く亡くなり、イエス様は長男として苦労なさったようですから、ひもじいということのつらさということをよくご存知でいらしたのでしょう。また、福音書には、イエス様は空腹をおぼえていちじくの木をご覧になって、「ひとつも実がなっていないじゃないか。」とおっしゃって枯らしてしまったこともありました。それには象徴的な意味があったのですが、実際、イエス様おなかが空いていたのですよね。そんなイエス様ですからきっと飽食の時代の私たちよりも「きょうのご飯をください」という祈りの切実さをよく御存知です。

私たちは「御国が来ますように」とこの国にも神様の御支配がありますようにと願って、世界の為政者たちのために、官僚たちのために、また平和のためにも祈り、同時に、「今日、私たちにごはんを与えてください。」と祈り、「あの熱で苦しんでいる姉妹の病気を治してください」とも祈るのです。そのように祈ってよいです。大きなことも小さなことも、どちらも、祈るべきです。神様を私たちの四畳半に閉じ込めておくのでなく世界の平和のために祈り、為政者のために祈るべきですが、同時に、おなかが痛くなったら祈りますし、頭痛が治りますようにとも祈るのです。
 神様はなによりも偉大な主ですが、同時に、神様はたいへんやさしく細やかな配慮に満ちた父でいらっしゃいます。だから、私たち小さな者たちの小さな祈りを「さあ聞いてあげよう。なんでも話してごらん。」と神様は待ちかまえていらっしゃいます。食べ物のことだけはありません。マルチン・ルターは子どもたちのための「小教理問答」でこんなふうに教えています。
「問い それでは日ごとの食物とはどんなものですか。
 答え それは肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などです。」
 私たちはこういうすべてのよきものを、天のお父様を信頼してくださいと求めてよいのです。むしろ求めるべきなのです。私たちは、生きていくために必要なこれらのものや人を「具体的に」天のお父様に求めて祈ればよいのです。遠慮する必要はありません。
 
 しかも、この祈りは「わが日用の糧を」ではなく「われらの日用の糧を」というお願いです。私ひとり満腹になればいいやというのではなくて、「私たちみんながご飯たべられますように」と祈るんだよとイエス様は諭してくださるのですね。
 また、「日用の糧を」という願いです。向こう一か月分の糧をでなく、向こう1年分、10年分の糧をというのではなく、一日の糧を求めているのです。私たちは、一日一日生かされているのですから、明日のことを思い煩わないで、今日という日を主を見上げて精一杯に生きるのです。
また、一年分、十年分、百年分と買い占める欲張りな人がいるから、食べるもののない人が出ることになります。一生かかっても決して使えないほどの富を独占することによって、他の人たちを飢えさせているというような生き方を自ら戒める祈り、それが、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」だといえるでしょう。


2 われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく


私たちの必要にかんする第二の願いは「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」です。イエス様は主の祈りの直後にこの同じことがらをとりあげて念押ししていらっしゃいます。「6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(新改訳は「負い目」と「罪」を訳し分けていますが、ここでは同義的にもちいられていると見てよいと思います)
 知り合いに、「私は『われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく』と祈るたびに、心探られるんです」とおっしゃるある姉妹がいました。その方は、昔からお兄さんと馬が合わなかったそうで、自分の心の底にお兄さんに対する怒りが沈んでいることに気づかされて、この祈りをするたびに毎回悔い改めさせられるのですとおっしゃいました。この祈りをささげるたび、同じようなことを感じているという人が、ここにもいらっしゃるかもしれません。それは大事な自覚です。
 文語訳では「ごとく」とあることばホースが、新改訳では残念ならが省略されてしまっていますが、この「ごとく」ということばは、人を赦すことと天のお父さんに赦していただくことは、比例関係にあるのだということを教えています。「私が隣人を赦す程度に応じて、天のお父さんま、私をも赦してください」ということです。逆に、「私が隣人をゆるさない程度に応じて、私を赦さないでください。」と祈っているのです。
 もっとも、ここでいう赦しというのは、イエス様を信じたときに神様がくださった永遠の赦しとは区別して考えるべきです。そうでなければ、誰かを赦せない気持ちになるたびに私たちは自分がほんとうに神様の前に赦されず、地獄行きかも・・・と毎度毎度疑わねばならなくなってしまうでしょう。恵みによって救われるのでなく、人を赦すという功績によって救われるということになってしまうでしょう。
 イエス様はこのお祈りを「天にましますわれらの父よ」という呼びかけから教えてくださいました。つまり、すでに神の子どもとしていただいたクリスチャンとしての祈りです。ですから、神のまえで永遠の罪のゆるされ、子どもとされた者として、この「私の罪を赦してください」と祈るように教えてくださったのです。私たちは、自分が人を赦すにしたがって、どれほど天の父が自分を赦してくださったのかということを学び、実感するのです。イエス様の十字架がどれほどありがたいものであるかを知るのです。逆にいうと、人を赦さないでいると、私たちは自分が神様から赦されたこと、愛されていることを実感できなくなってしまいます。天のお父様から赦されたという喜びや平安というものを失ってしまうのです。赦すとき、天のお父様が私を赦してくださったんだなあという喜びと感動が帰ってきます。神を愛することと、隣人かくべつ主にある兄弟姉妹を愛することは、切っても切れない関係にあるのです。
「4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(1ヨハネ4:20,21)


3 我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ


 天の父に、御国を来たらせたまえと祈り、日ごとの糧をはじめすべての必要を祈り求め、心の中の隣人を赦せない罪深い心を悔い改めて、最後に、求めるのは、「私たちを試みに遭わせないで、悪魔から救ってください。」と願う祈りです。
 たしかに、私たちキリスト者の国籍は天にあります。ですが、私たちはこの神様に背を向けた世界に派遣されているものです。神様を知らない人たちに、神様をあかしするために私たちはこの世界に派遣されています。地の塩として世界の光として派遣されているのです。
 この世界は本来神のみこころがなるべきところですが、今は悪魔が相当に影響を及ぼしている世界です。もちろん究極的な支配者は神様なのですから、一般恩恵としてよいこともたくさんあります。この世にはクリスチャンでなくても親切で誠実な人もいます。パウロマルタ島に漂着したときに、地元のほんとうの神を知らない人たちに助けてもらったことでした。ですが、聖書は、この私たちの住む世界が悪魔の影響を相当強く受けているというもう一面の現実をもしっかりと教えています。こと、霊的・宗教的なことになると、あの親切な人たちが、これほどかたくなにまことの神様をこばむのかと驚くことがあります。なにしろ、この世界は栄光の御子を十字架につけて殺してしまったという、そういう世界なのです。
使徒ペテロは言います。「5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ) 悪魔というのは単なる落とし穴ではなくて、ほえたけるライオンのように、獲物をさがしまわっているのです。
 また使徒パウロはエペソ人への手紙のなかで、「2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」と言っています。悪しき霊が、神様に背いている人々の中に働いているのです。

 これが私たちの遣わされている世界の霊的な現実なのです。私たちは、目を覚まして、警戒していなければなりません。では、どのように警戒すればよいのでしょうか?
「1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」
 「それぞれ自分の欲にひかれ、おびき寄せられ、誘惑される」とあります。魚釣りのときにまき餌というのをすると魚が寄ってくるように、私たちたちが悪い欲望をいだいていると、サタンが私たちに近寄ってきます。欲にかられているとき、私たちは簡単に悪魔の罠にひっかかるでしょう。肉の欲、目の欲、虚栄心といった欲望が、悪魔の大好物です。
 ですから、私たちは欲に警戒しなければなりません。どうすればよいのでしょうか。それは、神様に満ち足りることです。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことです。」神に満ちたりて、神様を喜んでいるとき、悪魔は私たちを誘惑することはできません。私たちが、神様を見失っているときが危ないのですね。
 だから祈ります。「我らを試みに遭わせず、悪魔から救い出してください」と。


結び・適用
 先週につづきわたしたちは主の祈りを学んできました。聖なる天にいます、けれども私たちに近しくなってくださった父なる神様に、私たちは祈ります。おそれと、そして親しさをもって。
 御名があがめられ、神のご支配がこの世界に、この教会に、この私の生活にありますようにと祈ります。
 日ごとの糧、すべての肉体的・物質的な必要のためにも、私たちは父にお願いします。それは私のためだけでなく、困窮している方たちのことを真剣に思って願います。そうして祈るとき、私たち自身をも主のみこころの実現のために用いてくださいと願いながら。
 父がくださった隣人を格別兄弟姉妹を、私はゆるします。父はこの赦しに関するお取り扱いを通して、私たちを御自分に似たものへと作り変えてくださいます。
 そして、執拗な悪魔の攻撃から私たちをまもってくださいと祈ります。
このように祈りながら、主のご栄光が私の人生を通しても世界にあらわされるようにと私たちは願うのです。

 一日の始まりの祈り、まず、「主の祈り」をじっくりと味わって祈って、それからさまざまな祈りの課題を祈っていかれてはどうでしょうか。「主の祈り」は、祈りの道案内となるでしょう。これは主イエスが私たちに与えてくださった完全な祈りであるからです。