苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アザゼルのやぎ <追記1,2>

16:7 二頭のやぎを取り、それを【主】の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。 16:8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは【主】のため、一つのくじはアザゼルのためとする。 16:9 アロンは、【主】のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
16:10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、【主】の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。
16:20こうして聖所と会見の幕屋と祭壇とのために、あがないをなし終えたとき、かの生きているやぎを引いてこなければならない。 16:21そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。 16:22こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。           レビ記16:7−22

 レビ記16章には贖罪の日の儀式の定め。アロンは民の中から二頭のやぎを引いてきて、一頭は罪祭として主にささげられ、もう一頭は荒野に住むとされた堕天使アザゼルのもとに送りつけたという。
 主イエスが、私たちの罪を背負わされて宿営の外、エルサレム城外のゴルゴタで苦しみを受けられたことを思う。

追記1>
アザゼルというのが堕落天使であり、彼にやぎを送りつけるというのがほんとだとしたら、ふつう贖罪論において、古典的だけれど謬説と退けられる「悪魔への身代金」説にも、少しは根拠があったということになろうか。C.S.ルイスの『ライオンと魔女』はこういうイメージにのっとって書かれている。
<参照>キリストの贖罪についての理解三つ
 http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%BF%C0%A4%F2%B0%A6%A4%B9%A4%EB%A4%BF%A4%E1%A4%CE%BF%C0%B3%D8%B9%D6%BA%C2%A1%CA%BF%E5%C1%F0%BD%A4%BC%A3%A1%CB#content_1_97 

追記2>
 ヤギは二頭用意され、一頭は主のため、一頭はアザゼルにということになります。前者は主への尊い犠牲(いけにえsacrifice)。後者は罪をかぶせて荒野のアザゼルに。
 主イエスの十字架の出来事は、改革者たちの代償説では、主への尊いいけにえと捕らえられています。これが一頭目のヤギの意味。これが本筋というのはわかります。
 では、なぜ主イエスは、罪を着せられて、しかも「神の領域」を象徴するエルサレム城の外に追い出されて、処刑されなければならなかったのか。・・・主イエスの十字架の出来事という恐るべきことについてなので、軽々しくは書けないのですが、そこにはもう一つの面があるとアザゼルの山羊は教えているように思われてならないのです。
 この点を、C.S.ルイスは『ライオンと魔女』のなかで、石舞台の上でなされた出来事に表現しています。



  今朝も雪かきでした。