苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

異なる火

「10:1さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、 10:2主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。 10:3その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。」レビ記10章1−3節

 聖書にはところどころ、このように恐ろしいところがある。なぜ大祭司アロンの二人の息子は、神様に撃たれたのだろうか。彼らはいったい何をしたのだろうか。「異火を主の前にささげた」というのが主のご命令に対する反逆であった。おそらく、神がお定めになりモーセを通して告げられた、灯明ではない自分流あるいは異教的な灯明をささげたのである。旧約時代において祭儀の定めはたいへん厳格に定められていた。
 ではなぜ彼らは、神の定めに背いて軽率に異なる火をささげたのだろうか。9節にその理由が暗示されている。「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。 」・・つまり祭司ナダブとアビフは酒を飲んで正常な判断力が働かない状態であったから、主のお求めにならない「異なる火」をささげたようである。神様の聖なる務めに携わるにふさわしい、適切な緊張感を欠いていたということである。
 イエス・キリストにあって、神は私たちに「おとうさん」と呼ばれることをよしとしてくださった。だから私たちは聖なる神に向かって、親しく「おとうさん」とお呼びしてよいのである。だが、神が聖なるお方であることを忘れて、悪い意味でなれなれしくなってはいけない。・・・そういうことを教えられる。
 以前、この箇所を祈り会で読んだとき、一人の敬虔な女性が「アロンはよく黙っていたねえ。偉かったねえ。」といわれたのを思い出す。そう。よくぞ黙っていた。口を開けば、またひとつ罪を重ねそうだというおそれを彼は抱いていたのだろう。