前に連載したものに、少しだけ筆を入れてまとめました。憲法学の専門家の方、ここが違うよというところがあったら、教えてください。
自民党の憲法改正案2012年度版を見た。下記でpdf版を読むことができる。
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf
ざっと見て、多くの点に疑問を感じるので、何点か取り上げたい。
<追記2013年4月19日 「2」天皇の憲法遵守義務のところを修正しました。2015年10月また改正案98条緊急事態宣言を加えました。>
1.最高法規:基本的人権条項97条を丸ごと削除
2.立憲主義の否定
3.102条 天皇には憲法尊重擁護義務がない
4.「公益及び公の秩序」とは?・・・・国権は人権に優越する
5.表現の自由の制限
6.20条「靖国神社国家護持を目指す」・・・国家神道復活
7.9条改変「戦争放棄を放棄する」
8.集団的自衛権議論のおかしさ
9.98条緊急事態宣言
日本国憲法
第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
・・・・ここに、自民改憲案の人権を軽んじ、国権を重んじる基本的姿勢が如実に現れている。
ちなみに、日本国憲法における基本的人権とは
・平等権・・・差別されない権利
・自由権・・・自由に生きる権利
・社会権・・・人間らしい最低限の生活を国に保障してもらう権利
・請求権・・・きちんと基本的人権が守られるように国に求める利
・参政権・・・政治に参加する権利。
http://www.geocities.jp/ttovy42195km/newpage23.html
もっとも自民改憲案が平等権〜参政権みな否定しているという意味ではない。これらを総合し、あらためて「最高法規」と章を立てて明記した基本的人権97条を削除した点に、人権軽視の姿勢が現れているというのである。具体的には、その「姿勢」は表現の自由、思想信条の自由、信教の自由といったことに制限を加えることとして現れている。上に挙げた、平等権・自由権・社会権・請求権といったことも現政権が軽んじていることはすでにあきらかである。
2. 立憲主義の否定
そもそも憲法の目的とは何か。それは、国権を制限することによって、国民の基本的人権を守ることである。それを立憲主義という。まずこの改憲案を作った人は、立憲主義、あるいは、そもそも憲法とは何なのかをごぞんじないか、あるいはご存じでも無視している点について。
現行憲法99条と自民改正案第102条を並べてみる。
自民党改憲案2012年4月27日版
第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う
憲法とはなにか。ウィキペディアの「立憲主義」の項目にごく常識的な説明がある。
立憲主義(Constitutionalism)は、多義的な概念であるが、国家の統治を、憲法に基づき行う原理、ないし、憲法によって権力の行使を拘束・制限し、統治機構の構成と権限を定めて、(国民の)権利・自由の保障を図る原理をいう。
国家権力は法と武力と刑務所いう強制力を備えた統治機構であるので、暴走すると主権者である国民にも噛み付き、食い殺しかねない。だから、国家が暴走しないように縛り付けておく鎖が必要である。それが憲法である。憲法とは、主権者である国民が、立法権・行政権・司法権を委ねた国家権力者が暴走しないように、この範囲で仕事をするようにと抑制し正常に機能させるための道具である。
だから、現行憲法は、正しくも国家機関はこの憲法を尊重し擁護する義務を負うと規定している。主権者である国民が、権力者に対して「この枠の中で、下位の法律を決めて、国を治めるように」と枠付けをするのが憲法である。つまり、憲法とは国民が権力者に勝手な事をさせないように、その力をしばるもの。法律とは、社会秩序を維持する為に、国民が守らなくてはならないものである。ところが、自民改正案2012年4月27日版は、国民に憲法尊重義務を課している。まあ、自分が国家権力に対して守りなさいよと命じているのだから、それを自分自身も尊重するのは大事なことだという意味ならばよいのだが、どうも意図することはそうではないことが、後に出てくる、基本的人権の制限などを見るとわかる。
この改憲案を書いた人は、立憲主義あるいは憲法は何かをご存じないのだろうか?まさか、そんなことはあるまい。そうでないとしたら、意図的に明治憲法の「外見立憲主義」に戻ろうとしているのだろう。外見立憲主義とは、表面上、近代国家の体裁を整えるために憲法を立てているけれど、実は専制君主制の隠れ蓑にすぎないばあいである。もし、この自民党憲法改正案2012年4月27日版が、実際に施行されると、日本国憲法の三大原則のひとつ国民主権は危うくなる。日本国憲法の三大原則とは、いうまでもなく国民主権・基本的人権の尊重・平和主義である。さらに基本的人権と平和主義をも、この草案は破壊しているから、これは改憲案ではなくて、壊憲案である。起草者もそれは否定しないだろう。
☆参照「そもそも憲法とはなにか?」
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20091214/p1
現行憲法99条と自民憲法改正案2012年4月27日版の102条を比較して見てもう一つ気になるのは、天皇が憲法擁護義務を負うことからはずされていることである。現行憲法では、憲法の下に天皇・摂政もいると表現されている。下記のとおり。
ところが、自民改憲案102条では、天皇には憲法尊重擁護義務がない。
自民党改憲案2012年4月27日版
第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う
天皇の憲法遵守の義務が書かれていないということは何を意味しているのだろうか。立憲主義における憲法とは王を縛ることが要点であるのに、それが欠けているのは珍妙な話である。日本は立憲君主制ではないという立場ならわかるが、自民党はわが国を立憲君主制であるとしている立場だ。
小室直樹さんが『日本人のための憲法原論』に書いているのだが、西洋の憲法は国王の権力が暴走しないように縛るものであるが、明治日本の場合、天皇は「神である」とされた。「神」をどうやって縛ったかというと、明治憲法は最初に「告文(こうもん)」というものを置いて、天皇が皇祖・皇宗・皇考(先代の天皇)に対して「朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆(あやま)ラサラムコトヲ誓フ」というかたちを取っている。天皇は人民と契約するのでなく、先祖代々の天皇と契約し、先祖に対する責任として、率先して自ら定めた憲法を守ると述べているのである 。
そして、天皇は大臣と臣民に憲法を守りなさいと前文の末尾で命じている。
「朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ」
つまり、明治憲法では、天皇が「わたしは先祖に対して憲法を守ると誓った。わたしにならって、君たち大臣もこれを施行し、臣民はこの憲法に永遠に従いなさい」と命じているわけである。天皇の働きには国務大臣の輔弼を必須とするとはいえ、かたちからいえば天皇主権論であった 。これが安倍氏がしきりに「日本を取り戻す」といっていることの意味なのだろう。
改憲案の前文には「日本国は、・・・国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」とある。国民主権ということばこそ用いているものの、天皇は別格で、その下に国民主権があるという意味の表現とおもわれる。だが、一方、改憲案第一条を見ると「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるのを見ると、国民の総意が天皇の地位の根拠とされている点では、天皇主権説とまではいえないかもしれない。だが改憲案が、本音では明治憲法に戻りたがっていることは確かである。
<追記 2013年4月20日朝>
主イエスは宮の納入金の問題が生じたとき、もともと王と王の子らは、税金を納める必要はなかったという原則について話された。だが、その原則は原則としてつまずきを与えないために、魚の口から取り出した銀貨をもって納入金とさせた。伊藤博文がこの話を背景としたとは思わないけれども、明治憲法における告文は、同じ構造をしていて興味深い。つまり、天皇は憲法を守る義務はない。しかし、臣民の模範となるために、自ら率先して憲法を守る。だから、臣民も守りなさい、ということ。
17:24彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。 17:25ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。 17:26ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。 17:27しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
マタイ17:24−27
4.「公益及び公の秩序」の意図
自民改憲案では、「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と置き換える。その実例として、表現の自由の制限と財産権の制限が条文に表現されている。
日本国憲法
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
自民改憲案
(表現の自由の制限)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
また、QA19第二項には次のようにある。
(2)公益及び公の秩序を害することを目的とした活動等の規制(21 条 2 項)オウム真理教に対して破壊活動防止法が適用できなかったことの反省などを踏まえ、公益や公の秩序を害する活動に対しては、表現の自由や結社の自由を認めないこととしました。内心の自由はどこまでも自由ですが、それを社会的に表現する段階になれば、一定の制限を受けるのは当然です。
たとえば、国策によって戦争が遂行されているとき、平和運動団体を結成したり、講演をしたり、物を書いたりすれば、「公益および公の秩序を害すること」にあたるとされうる。
もっとも、自民改憲案QA14を読むと、後半に「なお、『公の秩序』と規定したのは、『反国家的な行動を取り締まる』ことを意図したものではありません。『公の秩序』とは『社会秩序』のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されることはありません。」とある。
だが、残念ながら、この解説はごまかしだろう。もし解説文の通りなら、「公共の福祉」のままでよかったのである。そう判断される理由は二つある。
第一に、このQA解説文は法的拘束力をもたないので、実際の適用にあたっては反故にされうるからである。実際にこの種のことを政府は反故にしてきた「実績」がある。国旗国歌法が定められたとき、政府答弁では当時の官房長官小渕恵三氏は「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」(1999年6月29日衆院本会議)と解説したが、現実には反故にされて、多くの教員が処分されていることは誰もが知るとおりである。
第二に、法律用語上、「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の違いは先に述べたように大きいからである。「公共の福祉」はAさんの人権とBさんの人権が衝突した場合、調整しなさいよという意味。一方、「公益」とは国家社会の一般的利益を意味していて、「公の秩序」は法律で「〜してはならない」という文言で決められていることによって構成されている秩序のこと。つまり、それは時の政府が国益であり国の秩序であると決めていることに反することによって、人権を制限しますよといっているわけである。
「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」のちがいについて
http://www.magazine9.jp/morinaga/120523/
http://d.hatena.ne.jp/cannon_cntn/20120429
自民改憲案は、さらに、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」という文言に入れ替えて、国策のために国民の財産権をも制限するとしている。
日本国憲法
第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
自民改憲案
(財産権の制限)
二十九条 財産権は、保障する。
2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。
3 私有財産は、正当な補償の下に、公共のために用いることができる。
29条の改訂が想定している具体的なことは、有事法制に憲法上の根拠を与えることであろう。2003年小泉政権下で定められた有事関連三法では「武力攻撃のおそれのある事態」「武力攻撃が予想されるにいたった事態」「武力攻撃事態」において、人や物や土地を国が強制収用することができるとされているが、この法制は違憲の可能性があるので合憲化するために改憲したいのだろう。先の戦時下には、筆者の住む隣の村の野辺山の農民は、軍の訓練用飛行場として畑を強制収用されてしまった。また、人の強制収用が可能となるということは、徴兵制も視野に入っている。
もっとも現行憲法下にあってさえ、沖縄県の人々はずっと国策のために「財産権の制限」の下に置かれ、生存権を脅かされているのである。いや、こういう「受身」の言い方は無責任だろう。本土に住む私たち自身が、米国に気遣いわが身の安全のために、沖縄の人々をこういう生命・財産の危険の下に置いているのである。選挙において基地問題、オスプレイ配備問題が話題に上らないのは、私たち本土の選挙民が無関心だからだ。わが身に火の粉が降りかかりそうな事態になってはじめて声を上げるというのは、まことに自分勝手なことなのであり、書きながら自らを恥じている。
第一学習社有事関連3法解説
http://www.daiichi-g.co.jp/komin/info/siryo/7/030531/fr/frs6.html
2012年4月27日自民改憲案対照表
http://rijs.fas.harvard.edu/crrp/papers/pdf/LDP-Draft-Constitution-2012.pdf
さらに 「公益及び公の秩序」とは?・・・・国権は人権に優越する
現行憲法では、基本的人権について11、12、13条で次のように述べている。
現行憲法
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
自民改憲案でも、11条で基本的人権の享有については一応、次のように表明されている。
改憲案
「第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」
しかし、これに続く12条、13条によって、「公益及び公の秩序に反しない限り」と制限を付けることによって、11条は骨抜きにされている。
改憲案
「第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」
「第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」
つまり、現行憲法における「公共の福祉のために」「公共の福祉に反しない限り」とあるのを、自民改憲案はあえて変更したのである。「公益及び公の秩序」という文言の意味と、「公共の福祉」という文言はどのように意味が違うのか?自民改憲案QAによれば、次の通り。
「公共の福祉」というのはAさんの人権とBさんの人権がぶつかった場合のことをさしている。つまり、他人の迷惑を考えて自分の人権の主張は調整する必要があるということ。しかし、「公益及び公の秩序」は「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」という意味だとされている。人権同士の衝突でないとすれば、それは、人権が国権にぶつかる場合を意味する。時の政府が考える「公益と公の秩序」に反する人権は認めないということである。たとえば、政府は日の丸君が代に起立・斉唱するということを「公の秩序」だと考えているので、これに反することは違憲化される。
日の丸・君が代が国旗・国歌にふさわしいかどうかは今は別の議論として、ここで肝心なことは「公益及び公の秩序に反しない限り」という文言は、国の都合で、いかようにも拡大解釈できるという点である。国策として進められることに反することは、みな「公益及び公の秩序に反する」とされうる。たとえば、国策としての原発に反することが「公益及び公の秩序に反する」と国が判断すれば、反原発運動は違法化される。あるいは、かりに国が将来徴兵制を施行したとき、良心的兵役拒否をすることは違法化される。こういうわけで、12条、13条で「公共の福祉に反しない限り」を「公益及び公の秩序に反しない限り」と置き換えることによって、結局11条の「基本的人権」を空文化させているのである。
自民改憲案QA14番参照
http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf
「国歌でもめている国は日本だけではない」
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20120302/p1
自民改憲案対照表
http://rijs.fas.harvard.edu/crrp/papers/pdf/LDP-Draft-Constitution-2012.pdf
5. 表現の自由の制限
自民改憲案2012年4月27日
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
「自民改憲草案QA19には次のようにある。
(2)公益及び公の秩序を害することを目的とした活動等の規制(21 条 2 項)
オウム真理教に対して破壊活動防止法が適用できなかったことの反省などを踏まえ、公益や公の秩序を害する活動に対しては、表現の自由や結社の自由を認めないこととしました。内心の自由はどこまでも自由ですが、それを社会的に表現する段階になれば、一定の制限を受けるのは当然です。」
たしかに、テレビ、雑誌、ネットなどで流されるエログロ情報は公益に反すると思う。また、原発がすでにメルトダウンしているのに、大学教授まで動員してメルトダウンしていないと宣伝し、多くの人を被曝させた政府発表・NHK・民放・大新聞の報道も公益に反する。
問題は、「公益及び公の秩序」とはなにかという判断を誰がするのかということである。もし時の政府が恣意的に、「これは公益・公共の秩序に反する。これは反しない。」と判断する権限をもっているとすれば、これは非常に危険なことである。たとえば電力会社とべったり癒着した政府が、原発反対集会は公共の利益に反すると判断したならどうなるか。
国民の表現の自由は、それほど軽々しく国が制限すべきものではない。そもそも、憲法とは、主権者である国民が、公僕である権力(立法・行政・司法)を縛る道具であるのに、憲法をもって国民を縛ろうというのが見当違いなのである。
こちら参照
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20091214/p1
もうひとつの問題は、QA19に述べられていることで、「内心の自由はどこまでも自由ですが、それを社会的に表現」についてはこれを制限するということである。内心の事柄を外に表現することができないならば、それは自由ではない。我々キリスト者の信仰は内心の信仰にとどまらず、心に信じ口で告白する告白的信仰である。オウム真理教事件のような極端な例を取り出すことによって国民を納得させようとする手法は肯んじえない。実際にはこの種の制限は「有事」の際に、国民の反戦的発言を圧殺するために権力者が乱用するものである。
日本国憲法
二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない
自民改憲案2012年4月27日
第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない
<追記>自民QA第19には次のようにある。
(1)国等による宗教的活動の禁止規定の明確化(20 条 3 項)
国や地方自治体等による宗教教育の禁止については、特定の宗教の教育が禁止されるものであり、一般教養としての宗教教育を含むものではないという解釈が通説です。そのことを条文上明確にするため、「特定の宗教のための教育」という文言に改めました。
さらに、最高裁判例を参考にして後段を加え、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」については、国や地方自治体による宗教的活動の禁止の対象から外しました。これにより、地鎮祭に当たって公費から玉串料を支出するなどの問題が現実に解決されます。
自民改憲案が意図していることは、明確である。岩手靖国訴訟で違憲と確定された天皇および総理大臣をはじめとする公務員の靖国神社公式参拝を「社会的儀礼・習俗的行為」だとして合憲化することである。さらには、公教育において子どもたちに靖国参拝・護国神社参拝させることも合憲化されうる。彼らが言う「日本を取り戻す」というキャッチフレーズの「日本」とは、「天皇を中心とする神の国」つまり、明治時代の国家神道体制にほかならない。あの時代には、神社参拝・天皇遥拝は、宗教ではなく「国民儀礼」だとされたが、それが改憲案では「社会的儀礼」と言い換えられているだけである。
靖国神社は「心ならずも戦争で死んだ」兵士たちのための追悼施設ではない。靖国神社は、英語ではWarshrineつまり戦争神社と呼ばれるように、日本国民を戦争へとかりたてるための戦死者の顕彰施設である。戦前、他の神社は内務省の管轄だったが、靖国のみは陸海軍の管轄下にあったことからも、はっきりと戦争神社としての性格がわかる。戦後は一宗教法人となっている。靖国神社では、天皇のための戦争で死んだ軍人にかぎって、護国の神々としてまつられ、現人神である天皇がこれに参拝するということで、戦士した兵士の遺族たちの悲しみが厭戦気分に陥ることを防止し、かえってその悲しみを愛国心へと昇華させ、戦闘意欲をかきたてるための装置であった。
天皇および公務員が靖国神社を公式参拝することは、ふたたび国営化することに道を開く一歩となることであり、それは日本の悲惨な再軍国化への一歩ともなる。「うちの息子は、夫はせっかくお国のために死んだのに、戦争に負けたとたんに、英雄どころか犯罪者扱いにされた」という戦没者遺族の悲しみは深い。その遺族の気持ちは確かにわからなくはない。けれども、それがある政治家たちと戦争によって利益を得る勢力に利用されてきたことは残念なことであった。当の宗教法人靖国神社自体は、政治に巻き込まれて廃絶の危機にさらされた経験から、国営化を望んではいないということである。
聖書的観点からいえば、国家権力が国家宗教と癒着するときというのは、国家に悪魔が強く影響をおよぼしている危険なときである。よって、その癒着が起こらないように未然に防ぐことが、国民にとって賢明なことである。もし自民改憲案が施行されるようなことになれば、我が国はふたたび軍国化による滅亡への道へ一歩踏み出すことになる。筆者は、この国を滅びることを望まないし、わが子や孫が戦場に引き出されることを望まない。
13:1わたしはまた、一匹の獣(=国家)が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。 13:2わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍(=悪魔)は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。 13:3その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、 13:4また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。 13:5この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。 13:6そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。・・・・13:11わたしはまた、ほかの獣(=にせ預言者・国家宗教)が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。 13:12そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。(黙示録13章抜粋)*カッコ内の注は、筆者による。
7. 9条改変「戦争放棄を放棄する」
20条で靖国神社公式参拝合憲化と、戦争放棄条項9条の改変は当然セットになっている。戦争を効果的にしうるために20条改変を行なおうとしているのである。
日本国憲法
二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
これに対して自民改憲案の特徴は
1「戦争放棄」という章そのものがなくなり、「安全保障」となる。
2 自衛権を確認し、国防軍を設置する。
自民党改憲案2012年4月27日版
二章 安全保障
(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
(領土等の保全等)
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。
8. 集団的自衛権議論のおかしさ
ついでに、「集団的自衛権」について少しだけ書いておく。改憲派は「同盟国が第三者から攻撃を受けたときには、自国が攻撃されていなくても友邦としてその第三者を攻撃する権利であり、同盟国として当然だ」という。どこが当然なのか、さっぱりわからない。
頭を冷やして考えてみよう。あなたにAさんという友だちがいるとする。AさんがBさんと喧嘩をしていたら、あなたがBさんと仲が悪くもないのに、Bさんを殴りつけるのは正しいのか?正しいわけがない。二人の争いは二人の争いとして任せて置くのが正常である。両方から仲裁を頼まれたならば、双方の言い分をよくきいて仲裁することが正しい。こんな常識もわからない人が政権を取ったら危ない。箴言にはこうある。
自分に関係のない争いに干渉する者は、
通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。 箴言26:17
実際には、この集団的自衛権をうんぬんしているのは、米国の手下になるためである。戦争をし続けないと経済がもたないといういわゆる「戦争中毒」という病に陥っている米国に協力するために、集団的自衛権を行使可能にするというのは危険極まりない。上のたとえでいえばAという友達が無類の喧嘩好きであるので、あちこちで喧嘩をするたびにその喧嘩の付き合いをさせられるのである。兵器製造でもうけようとする「死の商人」は後押しするだろうが、実際に戦地に送られる国民にとってはとんでもないことである。 戦争中毒については、以前に書いたことを、ここに引用しておく。
「戦争中毒」ということばがある。米国が罹っている重度の経済・軍事的病気のことである。米国はおよそ3000万人が軍事関連産業に携わっているという数字を読んだことがある。兵器というものは他の製品とちがって、戦争をしなければ消費しない。しかも、10年以上たつと旧式になってしまう。だから戦争がないと兵器業界が不景気になってしまう。そこで、米国は10年ごとに「在庫一掃セール」をする。戦争を作り出すために、産業界は政府に圧力をかけ、戦争好きな大統領が選ばれるように画策する。ブッシュ大統領はその典型であった。米国は、戦争がわが身を滅ぼすと知っていながら、戦争がなければ生きてゆけなくなってしまっている。
産業界はいったん軍事をもって維持する構造に陥ってしまうと、もはやその戦争中毒=戦争依存症から抜け出ることができなくなってしまう。死の商人たちは「愛国者」の顔をして、周辺事態の軍事的脅威をマスメディアを通して宣伝し、祖国の危機を訴える。国民はマインドコントロールされて、仕方ないかと考える。軍事費はますます拡大して国民生活を圧迫する。
そもそも「集団的自衛権」というものは、覇権国が自分の支配下においている国に独立運動が起ったとき、これに介入することを正当化する口実としてひねり出された理屈なのであって、米国の覇権下にある日本のような国がわざわざ口にするような話ではない。たとえば、ソ連がチェコに自由化運動「プラハの春」が起ったとき、これに戦車隊をもって介入して押しつぶしたとき、「集団的自衛権を行使した」とへ理屈をつけたし、米国は1960年以降ベトナム戦争で南ベトナム政府を支援したことは集団的自衛権の行使だと理屈をつけた。これは下記を参照。
佐瀬昌盛『集団的自衛権』
http://books.google.co.jp/books?id=nlOeXhq1wXgC&pg=PT67&lpg=PT67&dq=%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9%E3%80%80%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B3&source=bl&ots=h-tSgildxu&sig=YMAfq24I1GFHbRWHh1Mv1RdaQTo&hl=ja&sa=X&ei=k5i-UNHEE6WyiQeeqYFo&ved=0CCoQ6AEwAA
内田樹研究室
http://blog.tatsuru.com/2012/09/14_1132.php
9. 98条緊急事態宣言・・・ほぼ全権委任法
自民党の改憲草案のなかに、ナチスの全権委任法によく似た、98条「緊急事態宣言」がある。緊急事態宣言が発令されると、国会は停止されて、内閣の決定が法律機能を果たすという。たとえば巨大地震が首都を襲ったとき、緊急の立法措置が必要であるが、国会議員を招集できないという事態が予想される。そういう場合を想定しての法案である。
たしかに、そういう場合がありうることは認めざるを得ない。しかし、これを用いれば一党独裁体制がかんたんに作ることができるということに注意すべきである。事実、歴史を鑑みれば、ヒトラーは自分で国会に放火して、それを共産党員のせいだとして彼らを取り締まり、国家転覆寸前の緊急事態を演出して、全権委任法を通した。その後の、ドイツの大暴走は周知のとおり。
かりに、この法を立てるとしても、よほど強力な歯止めをかけておく必要がある。その歯止めだけは、緊急事態宣言下でもはずすことはできないことにしておくべきだ。
こちら参照 http://article9.jp/wordpress/?p=531
(緊急事態の宣言)
第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
(緊急事態の宣言の効果)
第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
結び
日本国憲法の三大原則は、基本的人権の尊重・国民主権・平和主義(=戦争放棄)である。自民改憲案2012年4月27日は、これら三つの原則をことごとく否定するものであるので、これはあきらかに憲法改正の範囲を超えていて、むしろクーデター的な内容である。