苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

平和をつくる者

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」
マタイ福音書5:9


1 「平和」とは・・・山上の説教の文脈のなかで


 「平和」ということばは、旧約のヘブル語ではシャローム新約聖書ギリシャ語ではエイレーネーといいます。同じことばが、文脈に応じて平和とも平安とも訳されます。日本語としては、平和というと誰かと誰かの関係で争いがない状態をいい、平安というとおもに心の中の安心な状態を意味するという主観的な意味で用いられるですが、聖書ではもともと同じことばです。聖書神学辞典を見ると、シャロームとかエイレーネーとかの聖書全体の用法を調べていろいろなことを言っています
 では、「平和」をつくるものは幸いです」ということばで、イエス様が「平和」とおっしゃる意味はなんでしょうか。聖書辞典を読むよりも大事なことは、文脈をたどることです。イエス様は山上の説教の序文にあたる、この八つの祝福のなかで「平和をつくる者は、神の子どもと呼ばれる」とおっしゃっているのですから、マタイ福音書5章から7章の山上の説教の中で、「平和と神の子ども」というテーマがどのように用いられているのかに着目することが正しい聖書解釈の筋道です。
 「平和」と「神の子ども」を意識しながら、マタイ福音書5章から7章を味わってみると、5章43節から48節の教えが、イエス様がここでおっしゃろうとしている「平和」のことなのだと気づくでしょう。

 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」マタイ5:43−48

 これが、イエス様の、平和をつくる神の子どもに関する教えです。



2 「平和」とは


平和とはなにかと国語辞典で見れば、「戦争や紛争がない状態にあること。」というふうに、あまり積極的な意味では定義されていません。争いがないこと、それを平和というのです。たとえば、家庭の中にとくに争いがないことはよいことですが、それだけでイエス様がおっしゃる平和と言えるでしょうか。「喧嘩はしていないけれど、それは夫は仕事のことばかり、妻は、趣味のことばかりで、単にお互い無関心なので、争いがないだけだ」というばあいだってあります。でも、「愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無関心です。」というのはマザー・テレサの有名なことばがあるように、こういうのはイエス様のおっしゃる平和ではないでしょう。
エス様がおっしゃる平和とはなんでしょうか。それは、単に争いがないことではなくて、44節で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とおっしゃっているのを見ると、「互いに愛し、互いの祝福のために祈りあうような関係」であることこそ、「平和」なのだということがわかるでしょう。使徒パウロも次のように言いました。
「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:14、15) 
エス様のおっしゃる平和とは、このように積極的な愛の交わりがある状態を意味しています。互いに愛し、互いの祝福を祈りあう、そのような平和をつくる者が神の子どもと呼ばれるのです。


3 平和はつくるもの


さて、平和はこのような愛の交わりです。ですが、その素晴らしい平和は、ほうって置けば自然にできあがるものではなくて、意識してつくりだすべきものだとイエス様はおっしゃるのです。「平和をつくる者は幸いです。」
なぜ、平和というのはつくり続けなければならないのでしょうか。それは平和は、自然にできるわけではないし、その上、いつでも壊れるガラス細工のようなものだからです。ついさっきまで楽しく話していたのに、ふと要らぬことを言って相手を傷つけて、三日間も口を聞いてもらえない・・・そんなことがあるでしょう。また、平和を壊すのは私たち自身の罪であり、また、悪魔の働きでもあります。ですから、「昨日まで平和だったから、今日も明日も寝ていれば平和はつづくだろう」というのは間違いなのです。
日中国交が回復して今年は40周年の記念すべき年となるはずでした。けれども、今、日本と中国との間は尖閣諸島問題で危険な状態にあります。発端は、目立ちたがりの都知事尖閣諸島を都として買うということを思いついたことに、首相が挑発されて国民の人気取りをねらって国有化したことでした。そのタイミングが最悪で、中国では滅茶苦茶な国策デモ。こういう状況になると敵意を助長するような勇ましげな発言をする政治家がもてはやされることが多いのが心配です。平和をつくる努力を地道にすることのできる人が指導者として立てられることが必要です。
人はアダムの堕落以来、利己的になってしまって、神様のみこころよりも自分の都合、隣人のしあわせよりも自分の利益のことばかり考える習性があります。私たち自身を含めて、そういう性質をもっている罪人が、家庭にも、地域社会にも、この地球に一緒に住んでしているのです。自己中心で利己的な私たちの現実がありますから、私たちは絶えず悔い改めながら、平和をつくりだす努力をする必要があります。そういう世の中であるからこそ、私たち神の民にイエス様は期待していらっしゃいます。
身近な一例として夫婦をあげれば、一般に、結婚するまで男は一生懸命だけれど、結婚したら、仕事にのみ集中という傾向があるそうです。ちょっと前は、男は「釣った魚に餌はやらない」などと失礼なことを言いました。けれども、段々と女性も目が覚めてきて、そういうことなら「定年になって退職金が出たら、それをもらって、はいさようなら」というようなケースが出てきました。家庭に平和をつくるために、何の努力もしなければ、そこに家庭に不和が生じるのはあたりまえのことです。平和、つまり、単に争いがないというのではなく、互いに愛し合う状態というのは放っておいて維持できるわけではなくて、つくること、さらに育てることが必要なのです。
これは夫婦にかぎったことではなく、親子であれ、隣人関係であれ、国と国であれ同じことです。平和はつくるものですね。放置すれば、そこには不和、争い、戦争が生じることになります。


4 平和をつくる方法


 では、平和をつくる方法とはなんでしょうか。人間は愚かで、「平和をつくる者」についてもあきれ返るほど自分勝手な解釈をしてきました。もっとも有名な例は、コルトという会社のつくった拳銃の名前「ピースメイカー」です。この有名な拳銃は西部開拓時代のアメリカで量産され使用されました。「うるさいやつは殺してしまう」それが平和をつくる方法だというのでしょう。しかし、実際には、敵を殺すことによって生じるのは、憎しみと復讐であり、その復讐によってまた憎しみが増大していきます。憎しみの連鎖です。
 どういう名の映画であったか忘れたのですが、おそらくイラクを舞台とした映画でした。進駐している米軍をターゲットとして大きなテロがあって米軍兵士が何人も死にました。米軍兵士たちは復讐を誓い、テロリストグループの有名だけれど、顔の知られていない指導者を捜索します。彼は民衆のなかに浸透しており、なかなか見つかりません。多くの民衆に暴力を振るった後、ようやくある民家にかくまわれた白髪の老人がそれとわかり、米兵は彼と彼をかくまった女性たちを殺害します。米兵が現場を去ると、物置から10歳ほどの男の子が出てきます。母親、祖父と祖母を殺された男の子は言うのです。「この仇は必ずとる」と。あの子も数年後にはテロリストになるのです。これがラストシーンでした。
 憎しみに対して憎しみで報いるならば、それは火事のようなものです。一本のマッチが家全体どころか大きな森を焼いてしまうこともあります。

 イエス様は平和をつくる方法はなんだとおしえられたでしょうか。
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 「汝の敵を愛せよ」ということばは、よく知られたイエス様のことばですが、多くの人は「そんなことができるのは、キリスト様だけだよ。」と思うのかもしれません。たしかに、十字架の上でイエス様は「父よ、彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」ということばを知ったとき、私も驚きました。こんな祈りができるのは神の御子イエス様だけだ、と思いました。でも、使徒の働きを読んでいくと、エルサレム教会の執事の一人であったステパノは、福音を語ったかどで石打にされたとき、その死の直前にこう祈りました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)
 敵を愛し、迫害する者のために祈るのはイエス様だけではなく、イエス様の弟子である私たちのすべきことです。イエス様は、あなたに命じているのです。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 「敵を愛しなさい」といって、どう愛するでしょう。好きにはなれないでしょう。しかし、愛するというのは、「好き」という感情的ではなくて、むしろ意志的な行動です。決断です。イエス様はここで感情のことはまずさておき、行動を命じました。「迫害するもののために祈りなさい。」のろってはいけません。祝福しなさいということです。これは具体的な行動ですから、意志の決断によってできます。あなたが意志的に決断すれば、感情はついていかずとも、行動として祈ることができます。言葉に出して、「主よ。あの人を祝福してください」と祈るのです。
 このようにして信仰によって意志的に言葉に出して祈るならば、感情はあとからついてきます。ことばが、あなたの行動を導き、そして、感情を導くのです。ことばはヤコブ書にもあるように、大きな船にとっての舵です。ことばで私たちの生きかたも感情も、そして、人生もその航路を決めることになります。だから、わたしたちは言葉に出して、主イエスが命じられた、敵をも愛し祝福する祈りをささげるべきです。


4 神の子ども


●父のように、善をもって悪に報いる
 「平和をつくる者は神の子どもと呼ばれる」と主イエスはおっしゃいました。なぜでしょう?それは神様というお方が、平和をつくるお方だからです。日々良いもので満たしていてくださる神様を無視し、感謝もせず、礼拝もせず、「神などいるものか。」といっているそういう人たちにも、日々、太陽を昇らせ、雨を降らせ、空気を与え、食物を与えていてくださいます。悪に対して善を報いていらっしゃいます。ですから、私たちが神様の子どもなら、神様の子どもらしく敵の祝福を祈り、悪に対して善を報いるのです。それが、神のこどもらしい生きかたです。

 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

私たちは、自分らしく生きるときに自由なのです。イエス様を信じた私たちの中には、神の御霊がやどっていらっしゃいますから、私たちは神様の子どもらしく、悪をただ我慢するのでなく、悪に善を報いるときに私たちは自由であり、私たちの内に与えられたいのちは躍動するのです。


●キリストのように、十字架を背負う
 神様は正しいお方であり、神様に生かされながら人間は恩知らずにも、感謝も礼拝もせず罪を犯しています。それにもかかわらず、神様は、へりくだってこの世に御子イエスを遣わしてくださいました。御子イエスは、世に来られたのは世をさばくためではなく、神と人との間に平和をもたらすために、十字架の上で自らを犠牲として私たちの罪を処理するためでした。
 「私が正しい、あなたは間違っている」などと論じるのは、神を知らぬ人々に任せておけば良いのです。イエス様は正しいお方でしたが、私たち罪人を愛しその罪を背負うために十字架にかかられたのです。もし私たちが神の子どもであり、イエス様の弟子であるというならば、私たちも十字架を背負うべきです。そうして、平和をつくることです。
 「ああ幸いだ、平和をつくる者たちは。その人々は神の子どもと呼ばれるから。」この幸いをあなたの生活のなかで知る者となってください。
 



           Peacemakers

Blessed are the peacemakers,
for they will be called children of God.
Matthew5:9 and 5:43-48


The "peace" is not only in a negative state that"there is no strife" . "There is no strife among us because we are mutually indifferent" is not the peace which Jesus says. "Peace" means that there is exchange of the positive love among us. So Jesus tells us to love our enemies and pray for blessing for them.

Peace does not produce itself automatically nor continue. We have to make efforts to produce peace and to maintain it with eagerness . Between husband and wife, parent and child, a country and a country, and in what kind of relations, we should make efforts to make peace.

Then, what is the method of making peace? There is a handgun named “peacemaker”. Probably he who named the gun thought the it would make peace by killing an enemy. But violence makes only the chain of hate and it does not realize peace there.

Praying for blessing for our enemies is the method of building peace. Thus, those who love an enemy and make peace are called the child of God. It is because just God is the peacemaker. God gives a lot of graces to those who do not love Him. God gave us the beloved Son when we did not believe Him. As the children of God we want to pray for blessing for our enemies and love them.