苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストとともに十字架につけられ キリストとともによみがえる

 「人には一度死ぬことと、死後にさばきをうけることが定まっている」と聖書は告げています。私たちは、この世にあって、心の思いとことばと行動によってなしたことのすべてを、神の法廷であきらかにされて、さばきを受けることになります。
そうすると、全知全能の審判者である神の前では無罪である人はひとりもおりません。聖書にある罪のリストを見てみますと、「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」とあります。自分自身を振り返ってみると、恥ずかしいことですが、私は多くが自分にもあてはまるなあ、と認めざるを得ません。あなたはどうでしょう?
 では、こうした罪を行っていると、私たちは神の法廷でどうなるでしょう。有罪判決を受けて、きよい天国に入ることはできず、永遠の刑罰を受けなければなりません。
 しかし、神は、そんな私たちを惜しんでくださいました。神に背を向け、心とことばと行いにおいていろいろな罪を犯している私たちですが、それでも、神はなんとしても救ってやりたいと思ってくださいました。なぜでしょうか?神は愛だからです。また、神はご自分に似た存在として私たちを造ってくださったからです。
 そこでご自分の子であるイエス様を人としてこの世界に遣わして、どれほど神が私たちを愛しているかを示してくださいました。すなわち、神と瓜二つであるイエス様はそのご生涯をもって、神がどれほどきよいお方か神がどれほど愛に満ちたお方か、神がどれほと誠実なお方かを表しました。
多くの人々はイエス様についていきましたが、宗教的指導者たちはイエス様にねたみを抱いて、逮捕し、暗黒裁判にかけて有罪として、ゴルゴタの丘で十字架に釘ではりつけにしてしまいました。そのとき、イエス様はこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分でなにをしているのか、わからないのです。」
 イエス様を信じるということは、神の前での自分の罪を認めて、イエス様がこの私のために十字架で死んでくださったと信じることです。そうすると、神の法廷では、その人は、イエス様とともに十字架にかかって死んだのとおなじだと見なされます。イエス様にあって、神の前で、その人の永遠の刑罰は完了しているからです。 その人は、自分のために神の御子イエス・キリストがいのちまでも惜しまれなかったことに感動して、キリストの愛にこたえて、これからは神に喜んでいただけるような生き方をしたいと願う人に内側から変えられます。これが新しく生れるということです。